「集大成」への道のり 『バクマン。』10巻書評

バクマン。 10 (ジャンプコミックス)

バクマン。 10 (ジャンプコミックス)

バクマン。』10巻が発売されました。
アニメ放映も開始、『このマンガがすごい!2010』では『ONE PIECE』をおさえ堂々の1位と、まさに作中でサイコー・シュージンたちの目指す目標を『バクマン。』そのものが越えていっているという、ある意味「自然は芸術を模倣する」(オスカー・ワイルド)な状態ともいえます。
メタな視点で読んでいる読者などは、「サイコー・シュージンに『バクマン。』描かせりゃいいんじゃね?」とか、「いろいろあって、最後に自伝的に描いた作品がこの『バクマン。』なんじゃね?」とか思っているかもしれませんが、そうなると
*1
沙村広明の『涙のランチョン日記』が頭をよぎってしまうんですよね(笑)。
閑話休題
前巻では「描きたいマンガ」「新妻エイジに勝てるマンガ」を描くために、連載中だった『走れ!大発タント』の打ち切りを志願し、背水の陣に立ったサイコー・シュージンの二人。
この巻では、彼らがもがき苦しみながらも「自分たちの完成型」ともいえる作品を生み出していく、「さらなる修行」の巻です。

コーチと特訓

『走れ!大発タント』を打ち切り、次回の連載会議に持っていくための題材を考える二人。しかし今回は、編集の三浦のバックに服部がついています。
服部は二人の才能を見抜き、最初の連載『疑探偵TRAP』を立ち上げた名伯楽。二人のことを知り尽くしている服部が立てた作戦は、まず「以前の作品をよりエグく」すること。
そのアドバイスに従い、『この世は金と知恵』をバージョンアップさせた『この世はKTM(金・知恵・見た目)』という作品を描きあげます。
しかし、この作品はあえなく連載会議でおとされます。
すると今度は、真逆の王道ファンタジーを描くようにアドバイス
半信半疑で描いた『STOPPER OF MAGMA』もまた、連載会議で落とされます。
もうあとがない二人に、ようやく服部が姿を見せます。
そして、二人にこう言います。

次が本番だ
もう 俺のアドバイス無しでもいけるはずだ
(P45)

『疑探偵TRAP』立ち上げの際は、二人に具体的なアドバイスとその理由について説明した服部でしたが、今度は一転して「ベスト・キッド*2」特訓で二人を鍛え、最終的には「アドバイスなしで考えろ」と言います。
二人(そして港浦)に欠けていた要素は、「自ら気づく」こと。
*3
枠にハマった題材では実力を発揮できるものの、「ジャンプ」という一線上の戦場で、「天才」に勝つためには、「枠」を越えることが必要で、しかもそれを自ら「気づかせる」必要がある、と服部は感じたのでしょう。
実際、コーチングテクニックとして「気づきを促す」ということは重要な要素の一つです。
とはいうものの、あえてこれまでのコーチングとは真逆ともいえる特訓方法で彼らの「覚醒」を促す服部。
それは、これまでの特訓が「ジャンプで連載すること」に重きを置いたのに対し、「ジャンプで戦い抜くこと」に重きを置いた特訓・成長だったからであり、それはまた、サイコー・シュージンがある意味で「一つ上」のステージに上がっていることの証明ともいえます。

実体験をマンガに組み入れると言うこと

服部は、亜城木夢叶の作品に足りないものは「笑い」だと指摘します。
平丸一也の作中作『ラッコ11号』を引き合いに出し、シリアスなストーリーで自然に笑いがでる作風について言及します。
これはお気づきの読者もいると思いますが、前作『DEATH NOTE』がシリアスなサスペンスマンガでありながら、AAやコラージュで多数の読者に「ネタ」として昇華(あるいは「消費」)された実体験を踏まえていると考えられます。
google「デスノート コラ」
google「デスノート AA」
原作者大場つぐみ

Q.物語の創作のために、連載開始前後に資料収集や取材は行いましたか。
A.連載前は取材しておりません。
(中略)
連載が決まってからは、今までお世話になった色々な方面の方に意見を聞いたり、担当さんの力を借りて調べたり、ネットで調べたり、たまに失礼にも電話でいきなり関係者の方に直にお聞きしたりしています。
(マガジンハウス『BRUTUS』2009年6/1号の特集「オトナノマンガ」大場つぐみインタビューより)

と作品に対する取材について語っています。
そういう意味では、『バクマン。』は作者二人の実体験やエピソードがちりばめられた作品ともいえます。
例えば、原作者・大場つぐみも、作画者・小畑健も、『バクマン。』の中で平丸一也に感情移入できると話していますが、

Q.作品に登場する人物たちの中で、もっとも感情移入できる人物は誰ですか?理由もお答えください。
大場:平丸一也です。私だけではなく「休みたい」と言いながら描いている先生方は少なくないと思います。
小畑:平丸一也。普段から自分も平丸と同じことをボヤいているので、平丸の出るページは読み易さなど度外視でしつこく素の自分で描いています。
(雑誌「QuickJapan vol92」P27,31より)

平丸がアニメ化でモチベーションを保たされたところなどは自身の経験も反映されているようです。

(アニメ化について)聞かされたのがアニメが始まる一年半くらい前なので「言うの早いよ!これはアニメ化までモチベーションをもたせる作戦だな」と思うと同時にとても正しい作戦だと思いました。
(同P29)

この経験が、こういったシーンに活きてくるわけです。
*4
そしてまた、「実体験を作品に反映させる」というプロセスそのものを、『バクマン。』内でサイコー・シュージンたちが作品を考えるプロセスに取り入れています。
この相互作用がまた、『バクマン。』という作品をメタ的に読む読者に向けての「サービス」になっているともいえます。
・・・そういえば、
*5
こんなシーンもありましたが、まあ、この点についてはノーコメントで(笑)。

余談・「完全犯罪クラブ」にまつわるエトセトラ

「亜城木夢叶の集大成」を模索する二人。
そんななか、シュージンはとある悪巧みを思いつきます。
*6
このイタズラから閃いた新たなマンガ。それは、「完全犯罪」を行う小学生を主人公とした、「完全犯罪クラブ」というマンガでした。
ちなみに、「完全犯罪クラブ」というタイトルは、作中でも指摘されているとおり、同名の映画があります。
goo映画: Movie × Travel — 旅のような映画 映画のような旅

完全犯罪クラブ』(かんぜんはんざいクラブ、原題: Murder by Numbers)はバーベット・シュローダー監督によるアメリカのサイコホラー映画。2002年公開。
wikipediaより)

また、似たようなタイトルのミステリー小説もあり、ジャンプ連載時にはこの件を小説家・汀こるものtwitterにてネタにしています。
バクマンの「完全犯罪クラブ」に対する汀こるものさんの反応 - Togetter
つぶやき内で言及されている汀こるもの『完全犯罪研究部』についてはこちらをご参照。
http://d.hatena.ne.jp/ub7637/20100312/p1
まあ、清涼院流水『完全犯罪研究会』という作品もありますし、「完全犯罪○○」というのはダークな少年ものと相性がよいのでしょう。
と、いうのも、ここからは私見になりますが、「完全犯罪」という言葉に含まれる「全能性」という要素が、自意識肥大による「全能性」を意識する思春期の少年ものと相性が良いからなのだと思われます。
DEATH NOTE』と『バクマン。』を「全能感と限能感」という定義で比較したフジモリとしては、「早いうちに全能感に見切りをつけて自分たちの「枠」のなかで生きる」限能感をもったサイコー・シュージンの二人が、「全能感」をもった、どちらかといえば「天才肌」の子供たちを主人公に据えたマンガにたどり着くというのは、何ともいえない「捻れ」を感じ、非常に興味深いです。
「作品は作者の意思の表れ」ではありますが、『完全犯罪クラブ(仮)』にサイコー・シュージンはどのような思いを込めたのか、またメタ的な視線で、大場つぐみは「全能感」をモチーフにした『DEATH NOTE』と重ねてこの作中作を生みだしたのか、などといろいろ考えてしまいます。
【ご参考】
『バクマン。』は『DEATH NOTE』へのアンサーコミックかもしれない - 三軒茶屋 別館
ミステリやファンタジーにおける「全能感と無能感」 - 三軒茶屋 別館
ともあれ、『完全犯罪クラブ(仮)』は服部にも好評を得て、連載会議に回されることになりました。



服部のアドバイスと「気づき」、そして実体験から得た経験をもとに、亜城木夢叶の「集大成」ともいえる作品、『完全犯罪クラブ(仮)』を生み出したサイコー・シュージンの二人。
前巻までの読者が受けたストレスが一気に解放される今回のお話でしたが、この作品が「ジャンプ」でどのように戦っていくのか、これまでと同様の「アンケートバトル」ながら、次も気になってしまいます。
次巻は前・担当編集が語るところの「第一部 完」の巻です。(雑誌「QuickJapan vol92」P52より)
クライマックスを迎える11巻に向けての上り坂。次巻に期待が高まります。
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*1:沙村広明『おひっこし』P229。ちなみに、このシーン、笑うとこです。

*2:フジモリの造語。一見本筋とかけ離れている特訓を説明なく鍛え、「実はこのときの特訓にはこの意味があったんだ!」と驚きを与える特訓法のこと。

*3:P29

*4:P63

*5:P96

*6:P70