公私二元論とセカイ系と公共哲学

公共哲学とは何か (ちくま新書)

公共哲学とは何か (ちくま新書)

ザンヤルマの剣士 (富士見ファンタジア文庫)

ザンヤルマの剣士 (富士見ファンタジア文庫)

公私二元論と公共哲学

 『公共哲学とは何か』は、そのタイトルの通り公共哲学とは何かについて論じた、いわば公共哲学についての入門書のような本です。そこでは、ハンナ・アーレントの提唱した「公共的なもの」の定義、「万人によって見られ、開かれ、可能な限り最も広く公示されている現れ」という意味と、「私たちすべてに共通する世界」という意味を起点として、公共性について様々に論じています。
 公共性を考える意義として本書で挙げられているのが、いわゆる「公私二元論」という枠組みからの脱却です。
 公私二元論は、集団と個人の関係を把握する上で分かりやすい考え方ではあります。しかしながら、現代社会の問題を考えていく場合には限界があるのも確かです。例えば、法律学では公私二元論を基とした公法私法二元論が広く採用されています。私人間の関係を規律する民法や商法は私法に分類されることになりますが、民法においても一般条項としてその権利行使や契約関係について社会性が求められますし、商法においても企業の社会的責任が課題として挙げられます。つまり、単純な公私二元論では私人が担う公的側面が看過されてしまうのです。
 一方、公私混同という言葉もあるように、公人としての権利を私的に利用することは厳に戒められなければならないことではありますが、その根底にある、公が持つ私的側面というものもまた看過するわけにはいかないでしょう。そもそも、公私の区別とよく言われますが、公人としての立場が私生活をも律する現実というのは、社会人のみならず学生という立場においても明らかなことです。
 このように公私二元論が抱える問題と限界を乗り越えるために、本書では公共性という概念が用いられています。つまり、私の公共性、あるいは公の私性という公私の関連性を掬い上げるために「民の公共性」というものを考えます。つまり、

「政府の公/民の公共/私的領域」

の三元論的世界観の模索が本書の目指すものなのです。

公私二元論とセカイ系

 物語論において、公私二元論的なモデルが強調され議論の題材となっているのが、いわゆるセカイ系と呼ばれる世界観です。セカイ系とは、中間集団がなくて世界と自分の個人的な物語が直結しているという世界観と一般にいわれています。そして、セカイ系といわれる物語の多くは、主人公である少年少女にセカイの命運が握られています。セカイを取るか個人を取るか。それがセカイ系的な物語です。
 ”滅私奉公”という言葉があることからも分かるように、公私二元論はときに私を捨てて公のために尽くす考え方のモデルとして従来は機能してきました。セカイ系は、それに対するカウンターである”滅公奉私”を提示することで公私の相克を描いた物語観だといえるでしょう。ちなみに、セカイ系の代表作とされる『新世紀エヴァンゲリオン』では人類補完計画というプロジェクトが遂行されましたが、これなどは、上記のような公私二元論の相克の果てに二元論の枠組み自体に行き詰った結果として、公私の区別をとっぱらった一元的世界というパラダイムの提示を行なったものだと理解することができるでしょう。
 とはいえ、セカイ系と呼ばれる作品において一見すると無視されているように思われる中間集団ですが、しかしながら本当に無視されているのかといえば、もちろん作品にもよるでしょうが、実際は意見の分かれるところでしょう。そもそも、学校や宗教、家族、企業といった問題はセカイの問題なのでしょうか? それとも、個人の問題なのでしょうか? 中間集団的な問題について、セカイは個人に、個人はセカイに責任を押し付けあって、その結果としての無視だとすれば、それを拾い上げるのは誰の責任なのでしょうか?
 中間集団を無視しているということで批判されがちなセカイ系的物語ではありますが、枠組み自体について問題提起をしているのがセカイ系であるならば、そうした批判の方がむしろ的外れなものだといえるでしょう。ゆえに、そうした中間集団を再び枠組みに取り入れる考え方として、『公共哲学とは何か』が提唱する「民の公共性」という三元論的モデルには非常に興味深いものがあると思います。もっとも「公私の区別をつけろ!」「そんなのつかねーよ! だから知らねーよ!」というのがセカイ系的な世界観の根本にあると思いますが(笑)、だからこそ、セカイでも個人でもない中間というものを見つめ直すのも悪くはないでしょう。
 ちなみに、公共哲学的三元論的世界観の作品として個人的にオススメなのが、麻生俊平『ザンヤルマの剣士』シリーズです。世界を滅ぼす力を持つザンヤルマの剣。それを手にすることになった矢神遼が立ち向かうのは、世界の滅びとかいう大きな問題よりもまず先に、学校とか宗教とか家族とか、それこそセカイ系が無視しているとされる中間集団の問題です*1。もちろん、シリーズとしてその先にはザンヤルマと呼ばれる滅びの問題が立ちはだかってはきますが、その意外な真実と、それを知った上で遼が下した決断は、いろいろいいたいことはありますが(笑)、それでもとても印象に残ります。かなり昔の作品なので心苦しくはありますが、温故知新のセカイ系作品として強くオススメしておきます。
【関連】
私小説とセカイ系についての雑文 - 三軒茶屋 別館
【参考】
http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20071017/p1
汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/6d3595b8a4b30180c32e78f280681a46

*1:なので、厳密にはセカイ系扱いしてはいけないのかもしれませんけどね(笑)。