ライトノベルのあとがきと私小説についての雑文

 ライトノベルの中にはときに「中二病」などと呼ばれたりするものがあります。

中学2年生程度の屁理屈で社会を否定し、結果何の行動も起こさなくなる病。
中二病とは - はてなキーワードより)

 中学2年生程度の生半可な知識で練り上げる香ばしい屁理屈は、わが身を思い返しても冷や汗ものですが(笑)、とにもかくにもそれを読める物語にするというのは、それだけで結構すごいことじゃないかと思います。ただ、そんな「ぼく」の理論で社会を否定したり反発する小説って必ずしも中二病ライトノベルに限ったことではなくて、私小説なんかもそういう傾向があります。
 小林秀雄私小説について次のように語っています。

彼等の私小説の主人公等がどの様に己れの実生活的意義を疑っているにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである。
小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』p115より)

 ま、偉大な作家が書いた私小説中二病患者が書いたライトノベルも根っ子の部分では変わらないということは言えるんじゃないでしょうか(笑)。
 ライトノベルであとがきがあるのもそういう理由からではないかと思うのです。あとがきって、作者が作品の最後になって顔を出すのはいかがなものか、みたいなことを言われることもあってか普通はあまり付いてないんですが、ライトノベルではそういう声はあまり聞きませんし、それどころかてライトノベルには当たり前のようにあとがきが付いてます。これはほぼ絶対といってよいくらいの頻度です。
 あとがきというのは見方によっては一種の私小説だといえるでしょう。それと本編とがセットになっているのは、そもそも本編の方に私小説的な自分語りの傾向がまずあって(特に中二病作品の場合はそれが顕著)、それゆえに巻末で私小説的な補足めいたことが書いてあっても違和感がないどころが、ものによってはとてもしっくりくるということがあるからではないでしょうか。
 もちろん、ライトノベルといっても様々ですしあとがきもまた各人各様です。なので、こんな感じに私小説性を媒介とすることでライトノベルとあとがきの関係のすべてが説明できてるとは思ってません。ただ、私自身がライトノベル作品とそのあとがきを読んだときに受ける読後感として、こんなことを何となく思ったりしました。
【関連】
私小説とセカイ系についての雑文 - 三軒茶屋 別館
落語とライトノベル - 三軒茶屋 別館
『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』(田中ロミオ/ガガガ文庫) - 三軒茶屋 別館
【参考】
なぜライトノベルには解説がないのか?
http://angelheartclub.hp.infoseek.co.jp/lightnovel/lightnovel_10q.html(あとがきについての設問があります。)
ライトノベルのあとがきについて徒然と - SSMGの人の日記

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

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