『オカルトリック 02』(大間九郎/このライトノベルがすごい! 文庫)

オカルトリック 02 (このライトノベルがすごい! 文庫)

オカルトリック 02 (このライトノベルがすごい! 文庫)

私は助けてほしかった。
私は一人になりたくなかった。
私は支えられたかった。
私はわがままを言いたかった。
私は優しく抱きしめられて、私を肯定して欲しかった。
(本書p236より)

 人間の欲求を構造化したものとしてマズロー欲求段階説(参考:自己実現理論 - Wikipedia)と呼ばれるものがありますが、そうした欲求を生々しくもぐちゃぐちゃでありながらシンプルなエゴとして、ときに理知的にときに妖しくときにコミカルにときにシニカルに、そしてときに激しく表現された物語が本書です。本書のオビなどではイソラのメンヘラ性が強調されています。それが本シリーズの売りであることは間違いありませんが、しかしながら、メンヘラとは何かといえば、基本的にはネットスラングのようですが(参考:メンヘラとは (メンヘラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科)、実のところよく分かりません。本書の内容を踏まえた上での私見としては、マズロー欲求段階説でいうところの生理的欲求や安全の欲求といった段階をときにすっ飛ばしてアンバランスな自己実現を求めてしまうような性格のことを指すように思いますが、あまり自信があるわけでもないのであしからず。
 本書は三人称と一人称が混在した視点描写が用いられています。そうした手法は、虚実の混濁を表現するための方法として機能していることもさることながら、妄想を効果的に表現するために機能している点も看過できません。多田道太郎『転々私小説論』(講談社学芸文庫)において、私小説が死小説ではなく志小説あるいは詩小説であるように、ということが述べられた上で(『転々私小説論』p8参照)、妄想の楽しさについて語られています。本書の一人称視点は、そうした妄想を有意に語り、かつ少々痛々しい詩的な文章を語りとして昇華するために非常に有効に機能しています。まさに詩的私的ジャックです(ナンノコッチャ)。
 本書の頁数はあとがき込みで280頁ですが、目次を見れば分かるとおり、第一話「念写」の次の第二話「テーブルターニング」が262頁から始まるという非常にアンバランスな構成です。このアンバランスさこそが、登場人物たちの危ういアンバランスなキャラクタをそのまま表現しているといえますが、第一話「念写」で描かれる念者の念には圧倒されます。念写も未来予知も神隠しも、理知と執念の前には形無しで、しかしながらそれでいいのかいいんだろうなぁいやホントにいいのかと……。そして迎える第二話。憑き物が落ちてオチが着くのならともかく、憑き物が憑いてオチが着かない、というオチとはこれ如何に。とにもかくにも極めて印象に残るお話です。オススメです。
【関連】『オカルトリック』(大間九郎/このライトノベルがすごい! 文庫) - 三軒茶屋 別館

転々私小説論 (講談社文芸文庫)

転々私小説論 (講談社文芸文庫)