私小説とセカイ系についての雑文

 私小説といわれる小説があります(参考:私小説 - Wikipedia)。表現者自身である”私”の内面を掘り下げることに特化した小説という理解でそんなに間違ってはいないと思います(汗)。「私」を書くことを主眼としたそうした小説は、後のプロレタリア文学から社会性のなさを批判されたり、あるいは反自然主義運動がさかんになったりして衰退していきました。
 私小説の表現手法として作者自身の実体験を題材とすることがままあります。「私」を書きやすいしリアリティも持たせやすいというメリットがあります。その一方、自分のプライバシーを表現するためにはそれと関わりのあった他者のプライバシーにも言及せざるを得ず、表現の自由プライバシー権や名誉権との衝突といった問題が生じるというデメリットもあります。
 すべての私小説で作者が実際に経験したことが書かれているわけでもないのですが、それでも自分自身の内面を書いてることには変わりがなくて、それは普通に考えれば結構恥ずかしいことだと思います。それでも特に戦前の作家たちが私小説を書いてきたのは、明治以降西洋から民主主義や自由主義とかの思想が入ってきて、にもかかわらず日本の社会はいまいちそうした個人の自由や権利が実感できるものではなくて、それゆえに私という「個」の存在を主張してみたくなったからではないかと思います。小林秀雄は「私小説論」のなかで次のように述べています。

彼等の私小説の主人公等がどの様に己れの実生活的意義を疑っているにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである。
小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』p115より)

そんなわけで私小説だってそんなに悪いものじゃないと思います。しかしながら、上述のようなプライバシー権とかの関係とかいろいろあって、現在は私小説が書きにくい時代となっています。
 では、そうした個人と社会との対決を表現する文学にまったく需要がないのかといえば決してそんなことはありません。「セカイ系」(参考:セカイ系 - Wikipedia)という概念はそれを象徴していると思います。

田中 ミステリーは批評言語が非常に発達していますよね。率直なところ、これだけ批評言語が発達してしまうと書きにくかったりしませんか。
米澤 こういう言い方が失礼にならなければいいんですけれども、批評家というのも大きな枠で読者の一人だと思っています。なので、書いたものを立論の道具にしていただくくらいがちょうどいいんじゃないかと思っています。
田中 なるほど。例えば「セカイ系」などといろいろとレッテルが貼られますね。もちろんそういう暴力的な括り方も多少は必要だと思うんですが、実作者としてそういうものを意識するようなことはありませんか。
米澤 『ユリイカ』の07年4月号で特集を組んでいただいたときは、「ポスト・セカイ系」と「セカイ系」の括りから外されて、正直ホッとしたというのはありました。私自身は「セカイ系」が出てきたときにも、そういう世界観にはあまり興味がなかったんです。それなのに自分自身の作品がセカイ系と言われてしまったりすると、読み方は自由とはいえ落ち着かない感じはしました。
田中 「セカイ系」とは要するに、中間集団がなくて世界と自分の個人的な物語が直結しているという世界観ですね。
米澤 そうですね。そして私は「直結しないだろう」と思っていましたから(笑)。
(『小説トリッパー』2008年春季号所収、米澤穂信インタビュー「フェアな言葉の感触」p36より[文中、田中は田中和生、米澤は米澤穂信]。)

 「セカイ系」の典型とされている作品を見てみると、中間集団としての学校や組織などがあるのが普通です。ですから「セカイ系」という括り・概念は基本的には乱暴なものだと思います。にもかかわらず「セカイ系」という言葉が批評などで用いられがちなのは、「私」というものが描きにくい社会にあって、それでもなお「私」と社会の対決や緊張とかについて思いを巡らしたいという読み手側の気持ちが根本にあるからじゃないかなぁと思ったりします*1。なので、上述のインタビューのように書き手側などから敬遠されたりもします。
 また、セカイ系と呼ばれている作品は、ときに「きみとぼく」などと呼ばれたりして、主人公やその作品で示されている価値観や視野の偏狭さなどを批判されたりします。でも、例えばSFにもニュー・ウェーブという内省的・思弁的な方向を目指したものもあるように、内に内にと突き詰めていくことで見えてくるものだってあるでしょうから、それ自体が特に問題だとは思いません。むしろそこにこそ価値があるのではないでしょうか。
 というわけで、私小説が書きにくくなってる今だからこそ、その代替+何かとしての「セカイ系」な作品や考え方をもっと前向きに捉えてもいいんじゃないかと思ったり思わなかったりしました。
【関連】
ライトノベルのあとがきと私小説についての雑文 - 三軒茶屋 別館
公私二元論とセカイ系と公共哲学 - 三軒茶屋 別館
『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』(田中ロミオ/ガガガ文庫) - 三軒茶屋 別館
【参考】
「セカイ系」とシステム認知: インテリ源チャの日記
http://blog.livedoor.jp/yukiyukio_kun/archives/64716966.html
http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20071017/p1
わたくし率インmeー、またはセカイ(系) : PAN‐FICTIONAL DOCUMENT

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

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小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 3/25号 [雑誌]

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*1:他にも、ライトノベルと呼ばれる作品群には”ジャンル”として把握できるほどの内容的な統一性がなくて、ときにゼロ・ジャンルなどと呼ばれたりもしますが(参考:新城カズマライトノベル「超」入門』)、それでもその中の特定の作品について関係性を見出したいときがあって、そんなときに用いられる概念としての「セカイ系」という機能なんかもあると思います。