「フェアプレイと叙述トリック」についての落穂拾い

 フェアプレイと叙述トリックについて述べているものを、とりあえず私の本棚で目に付いた中からザッと紹介したいと思います。
(以下、無駄に長々と。)
 まずはフェアプレイについて、ミステリ読みの間ではかなり認知度が高いと思われる『どんどん橋、落ちた』の一文をご紹介。

「ルール?」
 と、先生は小首を傾げつつ、
「誰やらの十戒とか何とか、あの手のもののことですかな」
「『ノックスの十戒』ですね。あと有名なのは『ヴァン・ダインの二十則』っていうのもありますけど、どちらも書かれたのはもう七十年ほども昔のことです。今時あれらを律儀に守ろうなんていうミステリ作家はいないでしょうし、もしも愚直に遵守して書いたなら、ひどくつまらない作品しかできないのは目に見えているし……要は時代遅れ。”本格”と呼ばれている狭義のミステリに限ってみても、当時から現在に至るまでに、さまざまな局面で実に大きな変化が起こっているわけで。ある意味ではむしろ『十戒』とか『二十則』を意識的に破ってしまうところにこそ、”本格”は活路を見出してきたのだとも云えます。
 けれど一方で、中には今日なお有効ないくつかの項目があることも確かなんですね。それは主として”フェア・プレイ”を巡る原則的なルールで、例えば『十戒』の中に『読者の知らない手がかりによって解決してはいけない』とか『二十則』の中の『謎を解くにあたって、読者は探偵と平等の機会を持たねばならない。すべての手がかりは、明白に記述されていなくてはならない』とか、この辺のところはもう”本格”を志す者なら何が何でも心に留めておかねばなりません」
(中略)
「『手がかりは出揃った。さて犯人は誰か?』という大見得を作者が切る以上は、やはりそれなりのフェア・プレイ精神が不可欠なわけです。
 では、『必要な手がかりは示すべし』という原則は当然のものとして踏まえた上で、さらに何をもってフェアであるとするか。これは時代によってもいろいろと意見の分かれるところなんですが、とりあえず僕がもっとも重要だと思っているのは、『三人称の地の文に虚偽の記述があってはならない』ということです」
「三人称の地の文?」
「そう。三人称の記述というのは原則的に、すべての真実をあらかじめ知っているはずである、いわゆる”神の視点”がその上位に控えていて、記述内容の客観性・正当性を保証しているわけです。だから、三人称記述においては、会話文以外の地の文ででたらめを書くことは許されない。事実に反することを事実であるかのように明記しておいて、『手がかりは出揃った』と云うのはアンフェアだろう、と」
『どんどん橋、落ちた』(綾辻行人講談社ノベルス)p221〜222より

 これはいわゆる綾辻説とでもいうべきものですが、おそらく通説的な見解といってよいのではないでしょうか。私も特に異存はありません。もっとも、だからといって、すべての作家がこのような考えを持っているとは限りません。

 論理の積み重ねによってきちんと説明されなくても、トリックと、きれいな伏線が張ってあればいいかなと思っています。
『葉桜の季節に君を想うということ』(歌野晶午文藝春秋)p439より

 これは歌野説ですが、綾辻説と比較するとかなり緩やかなものです。一口にミステリといっても作家ごとにフェア・アンフェアの基準があるわけです。とは言え、歌野晶午にしたってものによってはガチガチの本格を書いてたりしますから、作品と作品論を安直にごっちゃにしてしまうのは危険でしょう。
 フェアプレイについてはこれくらいにして、次は叙述トリックに移りましょう。叙述トリックとは何か? 一応の定義としては、「ミステリーの書き方、叙述の仕方、あるいは構成を利用したトリック」(『日本ミステリー事典』(権田萬治・新保博久監修/新潮社)p159)、あるいはもっと簡単に「作者が読者に仕掛けるトリック」(『小説たけまる増刊号』(我孫子武丸集英社)p212)とされています(後者の定義の方が一般的かな?)。
 で、叙述トリックについての意見・主張を軽くさらってみました。

米澤 北山先生が叙述トリックは嫌いだとおっしゃっていましたが、これはやはり叙述トリックというのは、作者が読者に仕掛けるものであって犯人が探偵に仕掛けるものではないという考え方からだと、今の笠井先生との話の流れから感じましたが。
北山 ちょっとニュアンスが違います。こんなことを言うと怒られるかもしれないですけれども、例の歌野先生の作品が本格なのかどうなのか、本格として正しいのかと疑問に感じるんです。
米澤 一般には本格ミステリとして評価されているのではないかと思いますが。
北山 叙述トリックはそれ自体本格の一要素ですが、逆に本格ではない枠組みの中でも叙述トリックができればなんでもかんでも本格になってしまう可能性があると思います。だからこそ軽率に使いたくないという思いがあります。
『探偵小説と記号的人物』所収「座談会 現代本格の行方」p293より(文中、米澤は米澤穂信、北山は北山猛邦

 一ミステリ読みとして言わせていただきますと、一般的には非ミステリとされている作品であってもその中にミステリ的な要素を発見してしまうとミステリ認定されてしまうという現象は、何も叙述トリックに限ったことではないと思うのです。ですから、その場合における叙述トリックの特殊性についてもう少し語って欲しかったです。で、その点につきましては有栖川有栖が次のように語っています。

有栖川 要するに「叙述トリック」というから、本格ミステリのタームになるだけで、あいまいな記述、もったいぶった記述、信用できない語り手……って言い方にそれぞれ置き換えれば、小説全般で使われる技法ですよね。それを「叙述トリック」が出てくるからミステリだ本格だと、最近機械的に判定されてるような気がします。それは違うだろうと。本格の中で叙述トリックを使うときは、おのずと本格としての使い方がある、そこをふまえてるかどうか、ということが問われるべきでしょう。別におもしろければなんでもいいんですよ。ただやたらと「本格ミステリだぁ」っていうから、「いやそれは違うな」って作品はあります。
(中略)
有栖川 折原一さんが、「自分は叙述トリックを、サスペンスを作るための技法として使っている」ということをどこかに書いてらしたけど、その通りで、サスペンス小説にすごく馴染む技法なんですね。最後にちゃんと驚きがあって、「ここまで自分が宙ぶらりんのような気がしていたのは、こういうことが隠されていたからか」と。「こんな狭いところから真相を覗こうとしていたから全体が見えずに勘違いして、あんなに不安だったんだ」ということが分かる。サスペンス小説で有効に使われる技法です。
(『ミステリ十二か月』所収の北村薫有栖川有栖の対談「「全身本格」対談」p275〜277より)

 話は変わりまして、次は叙述トリックとフェア・アンフェアについてです。

 今回のトリックというのは、じつは読者にとってはアンフェアなのである。というのは、そのトリックが成立するかどうか、読者には判断できないからだ。登場人物たちが騙されているからといって、誰もが騙されるとは限らないのである。
名探偵の掟』(東野圭吾講談社文庫)p192より

 叙述トリックアンフェア論者の主張を端的にまとめると、おそらくこのようなものになるのではないかと思われます。もっとも、叙述トリックとしては、作中の登場人物は騙されずに読者だけ騙されるタイプのものが多いように思うので、これだけだと片手落ちのような気もします。登場人物と読者との判断基準の乖離という問題はメタ視点との絡みでも私的検討課題だと思ってます。
 最後に真打に登場してもらいましょう。

 一章で、ある男性登場人物Aが紹介され、その人物の視点でテキストが始まったとする。そこで、特に断りがないままに二章において”彼”なる視点で物語が続いた場合、彼=Aと考えるのは「暗黙の了解」である。これを破ることによって作者が読者をだまそうと試みた場合、それは「叙述トリック」となる。これは、「章」のレベルだけで行われることではない。極端な話、一文の中でも行うことは可能だ。
 我孫子武丸は、昨日彼の実家に戻った。
 この文章の”彼”について前後に相当する人物が見当たらず、それで文脈にも一致した場合、当然、彼=我孫子武丸と誰もが考える。しかも「戻った」と書いてあるのだから、普通それを疑う読者はいない。しかし、ここに実は法月なる謎の虚無僧がいて、三日前まで我孫子は彼の実家におり、一旦モロッコへ行き、昨日またそこに戻ったのだ、という解釈もできないことはない。
「そんなのはアンフェアだ!」と思った方は多いだろう。もちろん、アンフェアである。この二つのトリックは、どちらも基本的には同じトリックであり、どちらも小説の暗黙の了解を破っており、どちらも同じようにアンフェアである。
 つまり、「叙述トリック」はすべてアンフェアである。Q・E・D。
『小説たけまる増刊号』所収「叙述トリック試論」(我孫子武丸集英社)p213より

 とりあえず結論めいた部分だけの引用ですが、これだけでもかなり示唆に富んだ内容だと思います。フェアプレイと叙述トリックの関係を考える上で、『小説たけまる増刊号』所収「叙述トリック試論」に書かれている内容は押さえておいて損はない(個人的には必須と言いたい)と思われます。興味のある方はこの機会に是非実物をお読み下さい。いつ出版社品切れになるか分かりませんからね。
 それはさておき、叙述トリックについてアンフェアだと断じる我孫子武丸ですが、それでありながら傑作叙述トリックミステリをものにしているのはある程度のミステリ読みにとっては周知の事実でしょう。作品論は作品を楽しむため、あるいはより深く理解するためにあるのであって、作品の上位にあるものでは断じてないと思います。ですから、私としては個々の作品を楽しみつつ、抽象論は箸休めとして行なう位のスタンスが読書ライフを満喫する上で大事じゃないかと思います。
 とは言え、こうした抽象論も決して嫌いではありません。「他にもこんな本にこんな面白いことが書いてあるよー」というのがありましたら、どしどしお教え下さいませ(ペコリ)。
(なお、記事中に紹介した作品ですが、『どんどん橋、落ちた』や『葉桜の季節に君を想うということ』などは、現在なら文庫版で入手可能です。私が文庫版を底本にしなかったのは、単に手元になかったからです。今からの購入をお考えの方はその点をご注意下さい。)
【2008.2.1追記】叙述トリックと本格との関係について有栖川有栖の見解を追記しました。

どんどん橋、落ちた (講談社文庫)

どんどん橋、落ちた (講談社文庫)

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

ミステリ十二か月 (中公文庫)

ミステリ十二か月 (中公文庫)

名探偵の掟 (講談社文庫)

名探偵の掟 (講談社文庫)

小説たけまる増刊号

小説たけまる増刊号

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