『片眼の猿―One-eyed monkeys』(道尾秀介/新潮文庫)

片眼の猿―One-eyed monkeys (新潮文庫)

片眼の猿―One-eyed monkeys (新潮文庫)

――その猿は片眼をね――
――ねえ、三梨さん。その猿が失くしたのは何だったと思います?――
――何を失くしてしまったんだと思います?――
(本書p98より)

 盗聴専門の探偵、三梨。楽器メーカーからの依頼でライバル会社の調査中に、サングラスをかけた不思議な同業者、冬絵の存在を知る。彼女をスカウトして調査を続けようとしたその矢先に、ライバル会社内で殺人事件が発生する。否応なく事件に巻き込まれる三梨たち。果たして事件の真相は……?といったお話です。

道尾 活字でしか出来ないことをやりたいというのが僕の出発点なので、言葉でしか成立しない誤解を書きたいという気持ちがあるんだと思います。例えば『骸の爪』にしても、たぶんこれが映像化されたら「それはないでしょう」といって笑われる。でも活字で書くと、ありえるような気がする。それが活字の強みだと思うんですね。例えば、「鏡というのはどうして左右が逆さまになるのに上下は逆さまにならないんだろう」と言われたら、何か不思議な気分になるじゃないですか。でも実際に目の前に鏡があると不思議でも何でもない。不思議でないものを不思議と思わせる力が、言葉とか文章にはあって、僕はその文章の利点を生かしたい。そのノウハウを一番持っているのはミステリーというジャンルだから、言葉の利点を生かして小説を書こうとするとミステリー小説になるんだと思います。
(『野性時代第64号』所収「Long Interview 活字でしか出来ないこと」p19〜21より)

 道尾秀介という作家は活字の魔力に自覚的です。活字によって見えるはずのないものを読者に見せて、あるいはその反対に、見えなくてはいけないものを見えなくする。そんな活字の魔力を、本格ミステリにおけるフェア/アンフェアといった拘束を”枷”ではなく魔力を発揮するための”儀式”として巧みに活用しているのが作者の特徴ではないかと思います。
 叙述トリックは読者の常識や偏見といったものを利用して仕掛けられるトリックだと一般にいわれます。ですが、本書のように主人公のハードボイルド的な一人称視点で語られて、しかもその主人公に身体的な特徴があるがゆえに偏見と相対するかの如きフィルタのかかった文体で読者に物語が届けられていて、果たしてそれによって見えたり見えなかったりするものがある場合までも”叙述トリック”の批評的一言で済ませてよいものかどうかは、確かに議論の余地があると思います。
 ミステリというのは往々にして人死にを前提としたジャンルなので、基本的に不謹慎なジャンルだといえます。だからこそ、本来なら慎重に扱わなくてはいけないテーマでもエンターテインメントとして自然に仕上げることができますし、さらには本書のように軽妙な文体によって糖衣にくるんだスタイルで読者に伝達することもできます。表面の糖衣と中身の薬錠とが溶け合ったときの薬効は、何ともいえない微妙な味わいを残します。それを飲み込むもよし、吐き出すもよし、です。
 殺人事件と平行して三梨や冬絵の過去と現在がクローズアップされていくのですが、そちらの方に比重がかかり過ぎているがあまり、殺人事件の真相があまりにもしょぼいのが玉に瑕です(苦笑)。もっとも、”犯人しか知り得ないことを話してしまう”というありがちで陳腐な推理と解決も、本書の場合にはテーマとの関係で意義深いものになっていることは指摘しておかなくてはならないでしょう。
 ちなみに、

 巻末に”初出「新潮ケータイ文庫」”とあるので、ケータイ小説が書籍化されたと誤解されることがたまにあるのですが、書き下ろし作品です。原稿が上がったとき、前作『シャドウ』がまだ刊行されたばかりだったので、ある程度の間隔を空けるために新潮ケータイ文庫で一度配信してもらった次第です。
(『野性時代第64号』所収「著者による全作品解説」p34より)

とのことですので、ご参考まで。