『弥勒の掌』(安孫子武丸/文春文庫)

弥勒の掌 (文春文庫)

弥勒の掌 (文春文庫)

 本書は三人称語りですが、奇数章は高校教師である辻の視点、偶数章はベテラン刑事である蛯原の視点から語られます(ただし、最終章である第九章は「弥勒」です)。いわゆる三人称複元描写と呼ばれる手法でして、主要人物である二人から見た物語が交互に語られる構成になっています。そうした構成に加えて、辻の妻は行方不明、蛯原の妻は遺体となって発見され、その影には「弥勒の掌」なる謎の新興宗教の存在が見え隠れしています。こうした要素だけみるとミステリ読み的にはどうしても貫井徳郎出世作『慟哭』を意識しないわけにはいきません。
 宗教団体という存在は、作中の登場人物たちの一見して奇妙と思われる行動原理を説明するためのガジェットとして好まれる傾向があります。『慟哭』はその代表格ともいえる作品ですが、だからこそ本書を読み進める上で『慟哭』との違いを意識せずにはいられませんでした。また、確かに無信心者で無神論者である私のようなものにとって宗教とは彼方にある存在ではありますが、しかしながら、地下鉄サリン事件を契機にオウム真理教という危険極まりない宗教団体の存在か明るみとなったことから新興宗教団体について関心が集まった結果、その存在はまったくのブラックボックスというわけではなくなりました。
 新興宗教が社会の関心事として解体されて、さらには『慟哭』という傑作が前提として存在しています。その上で安孫子武丸が果たしてどのような物語を描き出したのか。そんな予断で頭をいっぱいにしながら本書を手に取ったわけですが(笑)、いざページをめくり出したらあっという間に読み終わってしまいました。
 「じゅうぶんに発達した叙述トリックはサスペンスと区別がつかない」*1というのは冗談ですが(笑)、叙述というものに敏感な作家が紡ぎだす物語というのは自然と読みやすい作品となってしまうことの好例ではないでしょうか。あまりに読みやすかったのが災いしてかミステリ読み的な問題意識を感じ取れないまま終わってしまったのにはただただ自らの不明を恥じるばかりですが、とにもかくにもそれだけ面白く読めたのは確かです。『慟哭』の後に続く作品としても納得の内容です。ミステリらしさ、という意味では物足りなさを正直感じはしましたが、だからといってミステリではないということではありません。したがいましてネタばれするわけにもいきませんし、ましてや結末を語ることなど絶対にできません。
 コンパクトにまとまった構成と結末の意外性を考えると、ジャンルを問わず多くの方に喜ばれる佳品だといえるでしょう。意外と軽く読める一冊としてオススメです。
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*1:A・C・クラーク「じゅうぶんに発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」が元ネタです。詳しくはこちらを。