『弁護側の証人』(小泉喜美子/集英社文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

 最初に白状してしまいますが、私は本作の良い読者ではありません。私が最初に本作を読んだのは、古本屋で買った昭和53年刊行の集英社文庫版です。どこかでミステリ史に残る傑作との評価を目にしたので手に取ったのですが、初読時には正直いってそこまでのものとは思いませんでした。というのも、法廷ミステリとしての醍醐味、あるいは社会派ミステリとしてのテーマ性という面からは深い感銘を受けましたが、ミステリとしての妙味がまったく理解できなかったからです。
 そんなわけで長らく記憶の片隅で眠ってた作品なのですが、裁判員制度の施行という大きな司法改革を背景とした法廷ミステリのちょっとしたブームの流れで本書も復刊されまして、web上にも本書の書評・感想が続々とアップされるようになりました。ということで、毎度お世話になっている黄金の羊毛亭さんの感想を読んでみたのですが、おかげ様で本書の真価をようやく理解することができました。成程。確かに傑作です。古い作品であるが故の古びた描写が目に付くのは致し方ないところであはりますが、多くの人に読んでもらいたい傑作です。
(以下、既読者限定で。)
 つまり、本書には少女か老婆に代表されるような騙し絵的な叙述トリックが施されていて、しかしながら私にはその絵が騙し絵であることに気が付かず一方の見方しかできていなかったために、何がそんなに面白いのか理解できていなかったのです。言い訳をさせてもらいますと、序章の描写を素直に読解すればそうなっても仕方がないと思うのですが(苦笑)、でもそれは本書ではフェアな記述がなされているということを意味するだけであって、本書に瑕疵があるとか言うつもりは毛頭ないのであしからず。
 そんな不届き千万な読者視点ではありますが、本書のトリックは決してトリックのためのトリックではありません。被疑者が誰であるのかが明確にされないままに過去と現在が交錯していく独特の展開には、被疑者と呼ばれる者の立ち位置の危うさを表現するためのものとして巧みに機能していると思います。
 また、本書のタイトルにもなっている”弁護側の証人”もまた極めて重要な問題意識を投げかけています。例えば、冤罪であったことが最近になって明らかとなった事件として足利事件(参考:足利事件 - Wikipedia)がありますが、被疑者を有罪とするための証拠として有力な証拠となったのがDNA鑑定でした。ですが、当時と今とではDNA検査の技術には大きな差があって、それは誰もが認めるところです。であれば、当時としては科学的な証拠足りえたのかもしれませんが、だからこそ、他でもない検察の自発的な判断によってDNA検査の再鑑定がなされ、証拠の信頼性が確かめられてもよかったはずです。いったい何故このようなことになってしまったのか?こうした事例にこそ、”弁護側の証人”が求められているといえるでしょう。
 ちなみに、一般論として、本件のようなケースで漣子に死刑判決が下るというのは考えにくくはあります。ですが、そのことをもって本作をマイナス評価するつもりはありません。自らの手で人を殺すことだけが犯罪なのではなく、裁判によって無実の人間を陥れる行為もまた冤罪の被害者にとっては紛れもない犯罪行為であるということを強調する意味で、死刑という判決はたとえフィクションだとしても必要なフィクションだといえます。
 叙述トリック云々を抜きにしても傑作なのは間違いないありません。再読して本当によかったです(笑)。