『神の手(上/下)』(久坂部羊/幻冬舎文庫)

神の手 上 (幻冬舎文庫)

神の手 上 (幻冬舎文庫)

神の手 下 (幻冬舎文庫)

神の手 下 (幻冬舎文庫)

「人の命を奪う安楽死は、聖なる神の営為です。我々はその権限を付与されています。すなわち、安楽死を執り行う医師は、”神の手”を預託された存在なのです!」
(本書下巻p128より)

 安楽死安楽死 - Wikipedia)法制定をテーマとした医療サスペンスです。フィクションではありますが、日本はもとより安楽死の先進国として知られるオランダなど世界的な安楽死の現実を基盤としながら、近い将来に起きるであろう安楽死論争と権力闘争とを先取りするかの如き展開がノンストップで描かれています。
 医療ドラマにおいて”神の手”といえば、普通は難易度の高い手術を成功させる天才的な技量を有する外科医の腕前を指して使われる言葉です。ですが、本書における”神の手”が意味するところは違います。医師は決して万能でも全能でもありません。
 その意味するところは、一義的には、患者の生殺与奪の権利を有する死神の手、タナトスの手です。医師は、患者の命を救うために医療行為を行います。ですが、終末期医療においては、耐え難い生の苦しみから解放されることを望む患者の声があるのも確かでしょう。安楽死とは、平たくいえば「楽に死ぬこと」です。延命治療の発達によって生まれた「苦痛に満ちた生」という問題。医療技術が進歩すればする程、そうした問題は社会にますます顕在化することになります。
 安楽死の議論は、本来であれば医師と患者による医療の現実とが最優先されて語られるべき議論です。ですが、安楽死法の制定という具体的な行動に移るとなると、様々な利権が絡んできます。安楽死の積極的な肯定とまでは行かなくとも、延命治療の中止は医師にとってとてつもないストレスになります。一方で、診療報酬の削減にもつながるという世知辛い現実も無視できません。そしてそれは、社会保障費の抑制と削減を目論む財務省にとってこの上なく都合のよい理論です。
 日本国憲法第25条は一般に生存権を保障されたものとして理解されています。憲法25条は多くの社会福祉制度の根本規範として重要なものですが、その法的性質は、直接個々の国民に対して具体的権利を付与したものではなく、国の努力目標を定めたものに過ぎないという、いわゆる「プログラム規範(プログラム規定説 - Wikipedia)」とするのが判例です。これほどまでに重要な規定が何ゆえ努力規定に過ぎないのかといえば、社会保障制度の充実には財政状況を無視して語ることはできなくて、いってしまえば「ない袖は触れない」ということに尽きるでしょう。こうした経済的現実を目の当たりにしたとき、”神の手”が有する意味も自ずと変わってきます。それは、アダム・スミスがいうところの”神の見えざる手(見えざる手 - Wikipedia)”です。
 安楽死法制定を巡る駆け引きは、そうした医療の現場での苦悩と財政的な要請と、権力と利権とが生々しく絡んできます。さらには、安楽死に見せかけた相続殺人、介護疲れによる安楽死の無理強い、医師による安楽死名目の治療の打ち切りなどなど。安楽死というテーマから浮かび上がってくる社会的問題は多岐に渡ります。
 マスコミを巻き込んでの陰謀と情報戦。安楽死の本質とは関係のないスキャンダルの暴露による個人攻撃や足の引っ張り合い、そしてついには謀殺まで……。物語は過剰なエンタメ性を保ちながらエスカレートしていきます。安楽死賛成派と反対派の仁義なき戦いの果てに勝利を手にするのはいったい? 安楽死というテーマを、患者ではなくあえて医師をメインにして描いたからこそのオチだといえます。これから迎えるであろう現実に向き合うためのワクチンとしての意義が本作にはあります。