『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 9』(入間人間/電撃文庫)

 今も、記憶は溶けて、混ざって、掻き混ぜられて、そして生まれていた。夢の中で水面が育むものは、僕をあまり多幸感で包もうとしない。突き放した、現実の夢ばかりだった。
 最初の内は、とても素敵に嘘塗れの夢ばかりだったのに。
 起床が近づいてきているってことなんだろう。でも、現実の夢。愉快な言葉だった。夢のような現実もきっと素敵だろうけど、現実を夢のように捉えるというのも、幸せそうだ。
 どっちでも、今の僕は救われるだろうから。
(本書p13より)

 作中の人物の死によって巡る思い出。動く感情。空回りする思考。停滞する物語。短編集『i』収録のifの物語や、あるいは8巻の主人公カップルを無視した展開もこうなると俄かに意味を持ってきます。
 今までとは違って自分にとって身近な人間の死。本筋とはほとんど関係のなかった8巻はあんなにぶ厚くて、本書はわずか216ページしかありませんが、内容的には本書のほうが詰まっています。これは感傷などではなくてそういうものでしょう。
 小説化現象*1による現実からの逃避。長瀬が生きている平行世界を夢想することでの思考停止。 平行世界に耽溺することの無意味さを散々描いておきながら、(ネタバレ伏字)長瀬に続く死者の名前(あるいは戯言か?)を伏せる(ここまで)ことで読者にも平行世界を意識させようとする試みは皮肉が利いてます。どこまでいっても素直じゃないシリーズです(苦笑)。
 また、自分と自分とで対話して自分の中に引き篭もる。「語り手(騙り手)であるぼく」と「読む僕」との分裂と対話は世阿弥がいうところの「離見の見」にも通じますが、その根元にあるのは孤独です。
 「愛とは、互いに見つめ合う事ではなく、 共に同じ方向を見つめる事である」とはサン=テクジュペリ(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ - Wikipedia)の言葉だそうですが、その言に倣えば、相手の自分のことを見てもらうことだけを望んで相手の見つめている方向を見ようとしないことがヤンデレなのではないかと思ったりします。だとすれば、ヤンデレなのは「ぼく」ではないかとも思うのです。「みーくん」と嘘をついてまーちゃんの目を自分に向けさせて、それでいて将来的な展望のない生活を惰性で過ごす。これまで、あれやこれやのトラブルに巻き込まれてはなにだかんだで乗り越えてきた「ぼく」ですが、その本分はまーちゃんとの二人だけの世界の維持にありました。
 それが今回、登場人物の死によって自分自身の死と生について考え、さらには自分が何をしたいかを自覚・確認するということは、「ぼく」にとっても物語にとっても進展であることは間違いないと思います。もっとも、こんな展開では夢も希望もありやしませんが……。
 次巻でいよいよ完結するみたいですが、そう言われてもいまいち信じられないのがこのシリーズらしいです。いったいどんな結末が待っているのか……。
【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 7巻 8巻 10巻 短編集『i』

*1:筒井康隆化現象と言い換えてもいいかもです(笑)。