『倒立する塔の殺人』(皆川博子/PHP文芸文庫)

倒立する塔の殺人 (PHP文芸文庫)

倒立する塔の殺人 (PHP文芸文庫)

「もう、何が正しくて何が悪いんだか、わからなくなっちゃったもの」
(本書p39より)

 戦時中のミッションスクールでは、少女たちの間で小説の回し書きが行われていた。『倒立する塔の殺人』と名付けられた一冊のノートを手にした者は、続きを書き継ぐ。その中に描かれている少女の死。そして、現実での少女の死。物語と現実がからみ合う、太平洋戦争末期を舞台にしたミステリ。それが本書です。
 まず、物語冒頭での酷薄にして簡潔な戦時の様子に圧倒されます。イヴではなくイブ。異分子のイブを意味するあだ名をつけられている阿部欣子には佐野李子という親友がいて、しかしその親友は夜間大空襲で焼死します。さらにその数日後、イブの母は米軍戦闘機の機銃掃射で頭蓋を打ち砕かれて死亡。そして、妹は衰弱死します。ここまでわずか22ページです。女学校を舞台とした女学生たちの物語。異分子であるイブが語り手であると同時に『倒立の塔の殺人』の聞き手(読み手)となる物語。イブは異分子と呼ばれるだけあって、「ごきげんよう」などと自然と呼び合う女学校の空気にいまいち馴染めません。だからこそ、語り手として作品と読者とをつなぐ役割に相応しいのですが、そうした女学生らしい繊細で甘やかな雰囲気の遠景には、たくさんの死とどこまでも広がる廃墟があります。
 戦時下の日本において、音楽、小説、芸術といったものは有害であったり敵性であったりと判断されればすぐに検閲されたり制限されたりします。生徒の間で交わされる言論もまた自由なものではありません。だからこそ、密やかな会話や関係に意味が生まれます。死が間近にある状況下にあって、思い出や物語を一人でも多くの仲間と共有したい。死が当たり前の日常だからこそ、一人の少女の死の物語を読み解きたい。複雑に思える本書の構成と物語は、実のところとてもシンプルな思いに貫かれています。
 絵や音楽やダンスといった芸術を楽しみ耽溺することによって得られる安らぎや微笑み。それは辛い現実からの逃避かもしれません。ですが、決して生きることからの逃避ではありません。死と虚無感とが支配する世界。倫理や規範が転倒する世界にあって、美の有する普遍性は世界の中心に力強く存在し続けます。
 本書はもともと「理論社ミステリーYA!」というレーベルから刊行されたヤングアダルト向けのお話です。とはいえ、登場人物たちの年齢が想定読者層に近くはなっていますが、それ以上の変な配慮や遠慮はありません。誤解を恐れずに言えば、戦前から戦後を描くNHK朝の連続テレビ小説においてすっ飛ばされがちな少女から大人になる前の年頃を丁寧に描いた物語が本書だといえます。瞬間を刹那的に切り取った物語ではありません。過去から未来へと紡がれる物語です。
 巻末の三浦しをんの解説でも触れられていますが、本書ではいくつかの文学作品や音楽や絵画についてたびたび言及されています。そうした芸術作品の魅力とそれを求める渇望とが描かれている本書は、芸術へのガイドブックとしても優れものです。本作中作という構成は、決してメタな仕掛けを狙ったものではありません。を書いたり読んだり歌を歌ったりダンスを踊ったり絵を描いたり鑑賞したりといった芸術に触れる喜びを、小説という芸術によって表現する。本書はそういう物語です。対象年齢問わず多くの方にオススメしたい一冊です。