『華竜の宮』(上田早夕里/ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

華竜の宮 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

華竜の宮 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

「地球はこんなに大きな星なのに、その一角がちょっと変化しただけで、わしらには生きる場所すらなくなるのか。なんとも非情な話だな。自然とはそういうものだと言われても、こんなことに納得できる人間はおらんじゃろう。陸にも海にも」
(本書p279より)

 第32回日本SF大賞受賞作品です。
 プロローグにて地球惑星科学の研究者によって語られる地震予知の難しさと防災技術の限界、そして大震災がもたらす被害の局地的のみならず地球規模で生じる社会へもたらす甚大な影響。それらはとても理知的で、言葉が出ません。本書が刊行されたのは東日本大震災前で、私が読んだのは震災後ですが、本書が有する力というのはそれに左右されるものではないでしょう。阪神淡路大震災という現実を経験した作者の価値観がそこには端的に表明されています。

「自分にとって小説を書くことは、死者にかける言葉を探す行為に近いんです。生きている人間や生き残ってしまった人間は、そこへ向かって、どんな言葉をかけられるんだろうと。すると、まず全肯定するしかないんですよね。その人が生きていたその瞬間までを」
「上田早夕里『華竜の宮』インタビュー」聞き手・高槻真樹 – SF Prologue Waveより

 ですが、本書はSFです。現実は現実として、その延長線上の物語として語られる圧倒的な世界観。苛酷かつ自然的人為的に激変する環境のなか、生き残るために海上での生活を選択した海上民と、陸に残った陸上民。環境適応のために地球上のあらゆる「生物」(人類すら例外とせず)に対する生命操作技術を解禁したことにより、人類のあり方も大きく変わった世界。『華竜の宮』は個のあり方と種のあり方を徹底的に問い直し見つめ直すカタストロフィSFだといえます。
 本書は幾人かの視点から物語が語られる多視点の描写が採用されていますが、主となる視点は日本政府の外交官・青澄誠司の視点です。アジア海域における日本政府と海上民との紛争処理に奔走する日々を過ごす彼の物語は、やがて国家規模、ひいては地球規模への物語へと怒涛の展開をみせることになります。ひとつの大きな事件が解決しないままさらに大きな事件が舞い込み、それすら解決しないうちにより大きな事件が舞い込む。外交官である青澄の仕事は交渉で、青澄の場合には対立する双方にとって必ず見返りが生じるような損得勘定を基本とした交渉が行われます。それによってリアリスティックなつながりを読み手としては感じます、ただ、そうしたレイヤーが次々と重なって、調整する相手のスケールも大きくなって、それでも、交渉という言葉での決着をどこまで望み臨むのか。
 そんな青澄の視点ですが、実をいえば少々変わった描写の手法が用いられています。というのも、青澄の直接的な視点からの描写ではなく、青澄のアシスタントAIであるマキの視点から”僕”という一人称によって語られているのです。

 主人公の青澄のパートを語るのは、マキと名付けられたアシスタント知性体。おお、これが上田さんのおっしゃっていた“「普通の人間ではないものから見た視点」というのは、何らかの形で作中に残す予定です。”なんだなと。
 このマキ君の視点から書かれた物語というのは面白い試みですね。青澄の心の動きもかなり分かるから、青澄の一人称ではなくて1.5人称とでも言うべきかなぁ。SFでなければ書けない設定だと感心しました。
著者インタビュー:上田早夕里先生 - Anima Solarisより

 アシスタントAIの役割は、作中キャラクタとしての役割的にも物語の語りとしての役割的にも、ミステリでいうところのワトソン役に近いです。近いですが、同じではありません。そんな似て非なる存在の、似ている部分と非なる部分とを考えるのもミステリ読みにとっては面白いです。
 アシスタントAIによる1.5人称の他にも、ツキソメやタイフォンといった複数の人物の視点(3人称)によって物語は語られます。圧倒的な災害と人災を前に、それぞれが何とかしようとあらゆる手を尽くしますが、主要人物同士が全面的に協力し合うということはありません。連絡がとれないなら取れないで、それぞれ相手が合理的な行動を採るであろうことを信じ、それぞれがそれぞれに最善と信じる道を進んでいきます。そうした生き方は、東日本大震災において「釜石の奇跡」と呼ばれる小中学生の行動ともだぶって見えてきます。

 一つ目は「想定にとらわれるな」。自然の振る舞いに想定内はあり得ない。想定に頼れば、想定外の事態に対応できなくなる。ハザードマップも「信じるな」と教えた。
 二つ目は「最善を尽くせ」。どこで、どんな津波が来るか分からない。津波が襲来したら、できることをやるしかない。
 三つ目は「率先避難者たれ」。一生懸命逃げる姿が周囲の命も助ける。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20111126_01.htmより

 疑うべきものと信じるべきものとの峻別。それは一種の情報戦であり駆け引きでもあり、外交官であり交渉に生きる青澄にとっての本領ではありますが、合理的思考に基づいた上での「信頼」は、ともすれば「計算」に置換可能と思えるほど冷徹なものです。ですが、それができてこそのプロフェッショナルです。それに、冷徹とはいったものの、本書から伝わってくる熱量に当てられればそうした感想は吹き飛んでしまいます。
 生命操作技術と知的生命体の発達と倫理規定の崩壊によって、「人」であることの境界線も揺らいでいきます。人間と魚舟/獣舟との関係は「人」という定義が生命科学技術によって危うくなることに対しての象徴的事象です。そうした状況において、「人」であるとはどういうことなのか。絶望的とも思える状況にあっても「一瞬…!! だけど… 閃光のように…!!!」*1いられる存在。それが「人」であるとするならば、「人」であるということは、結果ではなく過程なのでしょう。最新の地球惑星科学の知見をベースに濃密なSF的世界を作り上げられています。そんな世界が行間から血肉の臭いを放ちながら音を立てて崩壊していく破局を迎えていきます。自然という勝ち目のない相手を前に問い直されることになるのは様々な意味での「人間性」です。多くの方に強くオススメしたい一冊です。