『嫉妬事件』(乾くるみ/文春文庫)

嫉妬事件 (文春文庫)

嫉妬事件 (文春文庫)

 今を去ること30数年。京都大学推理小説研究会のボックス(部室)で、謎の怪事件が発生した。本棚に並んだ本の上に、何者かの人糞が載せられていたのである。本のてっぺんとその上の棚板とのあいだには数センチの隙間しかない。いったい誰が、どうやって、なんのために、本棚の中の本にウ×コを載せたのか?
 これが世に言う"京大ミステリ研ウ×コ事件"。竹本健治の実名ミステリ『ウロボロスの基礎論』の中で詳細に語られたことで、一躍、ミステリ好きのあいだで有名になった、ウソみたいなホントの事件である。

京大ミステリ研ウ×コ事件、最終解決!? - 大森望|WEB本の雑誌より

 『嫉妬事件』というタイトルには、字面どおり嫉妬という意味も込められてはいますが、その実体SHIT事件です。アンチ・ミステリならぬウンチ・ミステリです。中編というには長く長編というには短い文量で語られているのは、”事実は小説より奇なり”といいますが、実際に起きた事件という前提でなければちょっと考える気にならない事件です(笑)。
 筒井康隆が、笠井潔『哲学者の密室』の作中にある平面図について、トイレやバスがないといった瑕疵を指摘したことがありますが*1、論理性や合理性といった議論や仮説の検証が活発になりますと、寝ることや食べることといった人間が生活する上で当たり前に行なっている基本的な生活動作というものが疎かになりがちです。平面図にトイレがない、というエピソードはそれが端的に表れたケースだといえますが、本書ではそういうわけにはいきません。なにしろ、ウンチが重要な鍵を握っています。なので、トイレと部室との位置関係はもとより、排泄という行為と、その物体をどのように用意してどのように持ってきて置いたのか、といった観点からウンチについて考えざるを得ません。実際、作中ではウンチの「ふわけ」もしてますし(苦笑)。
 日頃、死体が当たり前のように出てくるミステリを読んだりして推理ゲームを楽しんでいるくせに、何ゆえそれがウンチになると考える気にならないのか、という非常に興味深い問題提起が本書ではなされています。密室や不可能犯罪を描くのに必ずしも死体が必要ではないのに、何ゆえ死体ならよくてウンチなら駄目なのか。その点についての、ウンチが汚物である一方で死体は尊厳を持って扱われるべきもの(本書p95以下参照)といった死体とウンチについてのウンチクと仮説はとても面白いです。
 舞台が鍵のかかった部室で、普通に考えれば鍵の番号を知っている者が犯人ということで容疑者と可能性は自ずと絞られます。ウンチを置いた動機や方法について様々な仮説が忌憚なく検証されるディスカッションは恥的かつ知的で本格的です。ただ、物語の後半になって重要な事実が明かされるのはやはり興醒めです。また、肝心の真相ですが、元もとの事件自体が奇異なものなので、完全に納得のいく解答を求めるのは無理ゲーなようにも思います。ですが、それでもやはり、これが実際にあった事件の真相を代弁しているとはとても思えません。本書での犯人を雪隠詰めのごとく追い詰める展開はよくも悪くも酷いです。ただ、それをいったら元もとの事件が事件です。これくらいの無茶をしないと小説に落とし込んだとはいえ真相を描けないというのもわかりますが……。
 いわゆる下ネタには性的なものと排泄的なものと2種類があります。これまで乾くるみには、前者の意味での下ネタに定評がありましたが、本書によって後者の意味での下ネタでも評価されることでしょう。つまり、下ネタミステリ作家として確固たる地位を築いたといえます。今後がとても楽しみです(笑)。
 なお、本書には、『三つの質疑』というボーナストラックが収録されています。『嫉妬事件』内にてウンチ事件がなければ行われるはずだった犯人当ての問題が短編というかたちで収録されています。実際の事件を元にフィクションを描きつつ、さらにフィクション内のフィクションを実際の作品として収録するという実に洒落た構成です。いかにも推理ゲームのために用意されたものらしい作品で、表題作の脱臭剤として最適です。イカモノが好きな方なら必読の一冊です。
【関連】http://hon.bunshun.jp/articles/-/433

*1:【参考】『本の森の狩人』(筒井康隆岩波新書)p150より