『たましくる―イタコ千歳のあやかし事件帖』(堀川アサコ/新潮文庫)

たましくる―イタコ千歳のあやかし事件帖 (新潮文庫)

たましくる―イタコ千歳のあやかし事件帖 (新潮文庫)

 『たましくる』は、魂来るという意味です。
 昭和6年。情夫と共に無理心中を遂げた双子の姉。残された姪を預けるため帝都東京から青森弘前を訪れた幸代は、そこで市松人形のように真っ直ぐに髪を長く垂らした盲目の巫女(イタコ)千歳と出会う。姉の死の真相を探るため、幸代は千歳に姉の声を聞かせてくれるように頼むが……といったお話が発端の、連作怪奇ミステリです。
 巻末の解説(解説者:東雅夫)にて、怪奇小説の怪しい魅力と、ミステリーの知的な興趣を兼ね備えた『たましくる』の作品世界は、こうした洋の東西にわたる文学的系譜の輝かしい末裔であると申せましょう。(本書p347より)と本書を評してますが、まさにそういった内容です。
 作中の出来事や人々の心情・事件に関わる動機にはその土地・時代ならではの事情や風俗が加味されています。弘前の方言もたくさん用いられており、その土地・時代ならではの雰囲気を堪能することができます。また、やはり巻末の解説で触れられていますが、本書の登場人物には太宰治を思わせる心中癖を持つ男がいます。その太宰が心中を図って自分だけが生き延びて失意のどん底にあった時期が昭和6年です。こうした文学チックなキャラ造形も時代性を表現するためのガジェットとして面白いと思います。
 「心霊探偵」「幽霊狩人」「ゴーストハンター」といった系譜に連なる「イタコ」探偵。ホラーとミステリの中間領域に属する特異なサブジャンル。どちらかといえばミステリ読みである私にとって本書はホラー色の強い作品(逆にいえば、ミステリとしての読み方にこだわると粗も見えてしまいます)ですが、ホラー好きの方からすればミステリ色の強い作品ということになるでしょう。
 いかにしてホラーとミステリの中間点にたゆたっていられるのか。作中、イタコの降霊についての次のような説明があります。

「周りの私たちはお祭り気分だけどね、免状を貰う本人は大変なんだよ。もう何日も前から断食だ、加持祈祷だ、水垢離だって、本当に気が遠くなるって。――実はね、気が遠くなって自分の意志とは関係ないことを喋り出せば、神様が憑いたってことになるの。それで、ようやく合格なんだ」
「そういうものなんですか?」
(中略)
「巫女(いたこ)だって免許皆伝してしまえば、そんな大変なことをいちいちしてないよ。ただ最初はね、自分ってものを消すコツを体で覚えるのさ」
「自分を消してしまったら?」
「神様や仏が入って来る」
(本書p73〜75より)

 ミステリで扱われる論理というものが、人間が持つ常識や固定観念・偏見といったものを無効化するものであるとすれば、それは、ここでいう神や仏と同質のものだといえるでしょう。さらにいえば、それによって自分というものが消えてしまう恐怖も体感することになります。ホラーとミステリ、感情と理性という異なる人間の精神の一面を扱うジャンルでありながら、かなりの割合で交錯することがあるのは、両者に「自分が消えてしまう」という共通の根底があるからだと思います。
 情と理は、ときに引き立てあいますが、ときに殺し合います。そんなとき、殺された側に立って、その思いを掬い上げるのが怪奇ミステリの本領だといえます。そういう意味で、本書は紛うことなき傑作です。多くの方にオススメしたい一冊です。