『エクソシスト』(ウィリアム・ピーター・ブラッティ/創元推理文庫)

エクソシスト (創元推理文庫)

エクソシスト (創元推理文庫)

「でも、いまのあなたは、精神科医の立場でしかお考えにならないのでしょう?」
「いや、私は同時に神父でもあります。大司教のところへ、いや、それがどこであろうと、悪魔祓いの実施のために、認可を求めに行くことになれば、まず最初に、お子さんの病状が、精神科医だけの問題でないのを証明しなければなりません。しかもそのあとで、教会が悪魔憑きの徴と認めるに足る証拠を認める義務があるのです」
(本書p347より)

 復刊に際して道尾秀介が”極上のホラーである前に、これは上質な人間ドラマだ。(本書オビより)”との推薦文を付けていたり、あるいは『SOSの猿』(伊坂幸太郎/中公文庫)にて本書が重要な役割を果たしていたり、そうでなくとも本書巻末の笹川吉晴の解説でも述べられているように、本書は〈ホラー〉というジャンルに多大な影響を与えた作品です。加えて、ミステリ読み的立場から付言すれば、ホラーとミステリという二つのジャンルを近接させることに貢献した作品であるともいえます。
 本書で問題となっているのはタイトルどおりエクソシスト、つまりは”悪魔憑き”であり”悪魔祓い”なわけですが、本書において娘に憑いたと思われる悪魔を祓うように母親から悪魔祓いを依頼される神父は、しかしながら、なかなか悪魔祓いを行おうとはしません。エクソシストとしての資格を持つ神父は、それと同時に精神科医でもあります。一人の少女の魂を救うに際し、まずは精神科医としての立場から徹底してその病状を検討します。ありとあらゆる可能性を検討しつくした上で、これは”悪魔憑き”に間違いないと判断できたときに、初めて悪魔祓いの儀式を行います。優れたエクソシストは、それ以前に優れた精神科医でなければなりません。
 エクソシストの悪魔に対するそうした態度は、シャーロック・ホームズの消去法の推理と近しいものがあります。すなわち、”「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)(シャーロック・ホームズ - Wikipedia)”というのがいわゆるホームズの消去法の推理ですが、最後に残るものに意外な真実を用意するか悪魔を用意するかでミステリかホラーかの分岐が生まれることになる一方、必ずしもその両者が矛盾するものではないことを考えれば、そこにミステリとホラーとの融合点・近接点を見出すことができます。
 本書(あるいは映画)は、悪魔にとり憑かれた十二歳の少女が卑猥な言葉を口走り、緑色の反吐を吐いて十字架を陰部に突き立てる――!などといった場面がとかく強調されがちで、確かにキリスト教圏ならずともショッキングな場面ではありますが、それ以上に神学的医学的科学的なアプローチによって描かれる(あるいは、描かれない)悪魔の本質や、それに対峙する神父の苦悩といったものを取りこぼすわけにはいきません。記念碑的名作として何かの機会に押さえておきたい一冊です。
【参考】第115回:高野和明さんその2「『エクソシスト』の衝撃」 - 作家の読書道 | WEB本の雑誌
【関連】『ディミター』(ウィリアム・ピーター・ブラッティ/創元推理文庫) - 三軒茶屋 別館