『七姫物語 第六章 ひとつの理想』(高野和/電撃文庫)

「目の前に大きな舞台があった。歴史に残るような面白そうな舞台があった。だから、背景も過去も大して興味が無かったので放置して、真っ直ぐここまで来た。天下と呼ぶ舞台に立っているのが面白いから、このまま進むだけだよ」
(本書p109より)

 シリーズ完結です。まだまだ続きが望める終わり方ですし、個人的には一宮との掛け合いをもっと読みたいです。なにより、七姫なんだから七章まで書いた方が座りがいいだろう、と思うのです。ですが、手の届かない空を見上げる物語であればこそ、こうした終わり方こそ似つかわしいようにも思います。そんな複雑で微妙な余韻は、決して嫌いではありません。
 最初は空澄(カラカラ)の視点限定で語られていた本シリーズですが、徐々に群像劇の様相を呈してきて、本書に至っては様々な人物の視点から東和の物語が語られます。七人の姫たちがそれぞれの都市の事情を背負う姿と見つめる東和の未来。それは重なるものもあれば相容れないものもあります。各都市の象徴である姫たちの萌え萌え度もこれまでより高くなってます(笑)。
 『族長の秋』(ガルシア=マルケス/集英社文庫)という作品では、”われわれ”という特殊な一人称複数視点描写を用いることで、ある国家と孤独な独裁者の姿を描き出しています。”われわれ”という視点は、市民から見た国家や権力者の視点を描く場合に極めて有効な手法だといえますが、テクニカルで取っ付き難いものであるのも否めません。その点、主として姫という象徴の視点から国家の姿を描こうとしている本シリーズは、『族長の秋』と同じ方向を向きながらも読みやすく親しみやすい物語に仕上がっています。それこそが、”象徴”の役割であるともいえるでしょう。
 合従連衡が基本の東和にあって、二宮スズマと七宮カセンの対立は印象的です。争いつつもすれ違う二つの都市。なぜこれ程までに「合わない」のか。七宮のトップであるトエル・タウが二宮を嫌いだから、といってしまえばそれまでですが、では何ゆえそんなに嫌いなのか。そして、翡翠と空澄は姫としてどういった点がそんなに異なるのか。思うに、二宮が大義として掲げる大師の思想、そして真都同盟という存在は、ポストモダニズム風にいえば「大きな物語」ということになるのでしょう(【参考】ポストモダン - Wikipedia)。そんな「大きな物語」の端役になることを、テンやトエは嫌うのでしょう。また、自らの目で東和の世界を見ることを望む知りたがりの姫・空澄にとっても、自らの見る世界とは異なるものを押し付ける二宮とは進む道が自ずと異なってくるのだと思います。
 政治だったり経済だったり戦争だったり。様々なレベルでの都市間の抗争が描かれていますが、「他人の野心は他人の世界」*1。都市レベルでも個人レベルでも微妙な距離感が描かれています。そんな距離感という皮膜を通して描かれている物語だからこその透明感はシリーズを通して一環しています。
 続きが出るのに時間がかかってやきもきさせられましたが、とても面白かったです。シリーズが完結した今だからこそ、多くの方にオススメしたいです。そして、「一応の完結」から本当の完結が描かれることをひっそりと楽しみにします。
【関連】
三軒茶屋本館書評 「七姫物語」シリーズ(第一章〜第四章まで。登場人物一覧表や用語メモなども。)
『七姫物語 第五章 東和の模様』(高野和/電撃文庫) - 三軒茶屋 別館

*1:本書p114より