『妃は船を沈める』(有栖川有栖/光文社文庫)

妃(きさき)は船を沈める (光文社文庫)

妃(きさき)は船を沈める (光文社文庫)

 本書は犯罪学者・火村英生を探偵役とするシリーズの第八長編ですが、前文であるはしがきにて、”「第一部 猿の左手」の中で、怪奇小説の名作として誉れ高いウィリアム・W・ジェイコブズの短編『猿の手*1のストーリー全体に言及していることをお断りしておく。(本書p5より)”という注意書きがなされています。『猿の手』が未読であったとしても楽しめるような描かれ方がなされてはいますが、有名な作品でもありますし、やはり事前に『猿の手』を一読されておくことを強くオススメしておきます。
 はしがきによれば、作中にて行われている『猿の手』の解釈についての議論は、著者である有栖川有栖北村薫との間で実際にあったことが作品に織り込まれたものだ、とのことです。そんな『猿の手』にまつわる解釈の違いはとても興味深いものです。正直、それだけで本書を読む価値は十分にあるといえます。超自然的現象を前提として『猿の手』を読むか、それともそうした現象を一切排除して読み解くのか。個人的には前者の読み方が当然だと思っていただけに、後者の読み方には蒙を開かれる思いがしました。超自然的現象を論理に落とし込む。それでいて恐怖感が減じるかといえば、その性質が変わりこそすれ、衝撃はむしろ増しているとすらいえます。これこそミステリが有する意義です。
 本書は、「第一部 猿の左手」に幕間を挟んで「第二部 残酷な揺り籠」という二部構成となっています「第一部 猿の左手」では、はしがきにあるように、『猿の手』についての解釈の違いが、事件の真相と解決(?)に結び付いています。自殺か保険金殺人か。原因と結果とをつなぐ因果の問題、あるいは言霊の問題、とでもいえるでしょうか。
 幕間を挟んで「第二部 残酷な揺り籠」、冒頭での大地震の発生には正直ドキリとせずにいられませんでしたが、それはさておき、第一部での容疑者が再び事件の中心人物として登場します。『妃は船を沈める』というタイトルから想起されるとおりの展開です。そういう意味で、本書は通常の形式のミステリでありながら犯人をいわば名指ししている倒叙ミステリとしての性質も兼ね備えているといえます。そうした趣向の意味は、本書を犯人当てゲームとしてではなく、因果と応報について描くことがテーマだからだと思います。
 『猿の手』という名作古典に依拠している度合いが高いので、作品として手放しに高く評価するのは躊躇われます。ですが、『猿の手』についての解釈の議論はエキサイティングなものです。それに、第二部において真犯人を指摘する推理の冴えも見事なものです。作中に漂う哀切な雰囲気は狙い過ぎの感もなくはないですが、そんな人工的な哀切が綱渡りな推理と妙にマッチしています。『猿の手』を既読であることを前提にオススメの一冊です。
乱歩の選んだベスト・ホラー (ちくま文庫)

乱歩の選んだベスト・ホラー (ちくま文庫)

*1:未読の方には作中で紹介されている『乱歩の選んだベスト・ホラー』(森英俊野村宏平編/ちくま文庫)をオススメしておきます。