『1000の小説とバックベアード』(佐藤友哉/新潮文庫)

1000の小説とバックベアード (新潮文庫)

1000の小説とバックベアード (新潮文庫)

小説は天帝に捧げる果物 一行でも腐っていてはならない
中井英夫 虚実の間に生きた作家』(河出書房新社)p165より

 本書は小説についての小説、あるいは小説家についての小説です。「小説家の小説化」ともいえるでしょう。
 「そもそも小説って何?」とか考え出すと泥沼にはまってしまうのですが、本書では”小説ですと作者が云えばそれは小説になる(本書p71)”、”小説を書くような心で書けば、それは小説なのでは?(本書p72)”といった、言わば「作者主観説」とでもいうべき小説の定義が示されています。
 そうしたスタンスによりますと、小説とは何かを考える上で小説家とは何かを考えることが非常に大事になります。ただ、そうした方向への考察は、読者としての私は厳に慎むべきものであると禁じている考え方ではあります。
 まず、作品論と作家論は区別すべきである、というのは大事な建前です。ですが、さらに本音を言ってしまえば、私にとって作者とは「レーベル」です。私が興味があるのは基本的に作品であって、そこから作家について考えたりあれこれ論じたりするのは面倒なのです。換言すれば、作者とは距離を置きたいのです。ネットという双方向性を有するメディアでこうしてブログを書き続けていれば尚更です。
 なので、小説を書くにあたって作者がどんなに苦悩しているのかというのも基本的には知ったことではなくて、そういう意味で薄情な読者だという自覚はあります。ですが、だからといって小説家にまったく興味がないわけでもなくて、ときにそうした興味は小説家という「職業」への興味に帰着します。なんとなれば、やはりネットが発達した昨今、作品を発表するだけならネットを利用することで多くの方に読んでもらうことができます。となれば、プロとアマの違いは何なのか? 小説家という職業はいったいどういうものなのか? といったことが興味の中心となります。そんな疑問を充足してくれる本としては、森博嗣の『小説家という職業』(集英社新書)がオススメで、小説家でもなんでもない私ですがこの本の内容にはかなり納得できるものがあります。
 ただ、一方で森博嗣の考え方はあまりにビジネスライクというか割り切り過ぎのような気もします。小説を書くということには、もっと割り切れない情動や苦悩や絶望といったものもあると思うのです。そんな単純に職業としては割り切れないウェットな想い・零れ落ちる塵芥を拾い集めて、作者なりの物語として紡ぎ合わせたのが本書の物語だといえるでしょう。だから本書は突拍子のないとりとめのないどうしようもないもので、でも、「小説」です。
 小説の対義語として、本書では「片説」というものがあります。片説とは特定の依頼人を恢復させるための文章であって、不特定多数の「読者」を対象とする小説とは異なります。また、小説家は一人で作品を書くのに対し、片説家はグループを組んでみんなで考えみんなで書く創作集団に属します。そこには小説家が請負契約に基づく請負人であるのに対し片説家は雇用契約に基づく労働者であるがゆえの身分の保証などといった世知辛い事情が見え隠れしつつも、片説、あるいは片説家といったもの自体はそんなにピンとくるものではありません。ただ、当記事を書くにあたって片説という字をタイプしてみて思ったのですが、片説と打とうと思って変換すると「変節」が真っ先に変換候補として出てきます。つまり、「変節」への決別という本書の物語は、変節することなく小説家として生きていくことへの決意表明、もしくはそうした自己カウンセリングの意味合いが込められているのかもしれないと、そんなことを思ったりしました。
【関連】
そもそも小説って何? - 三軒茶屋 別館
『小説家という職業』(森博嗣/集英社新書) - 三軒茶屋 別館
『弓町より』(石川啄木/青空文庫)(本書において重要な役割を担っている作品です。)
バックベアード - Fantapedia~幻想大事典 - アットウィキ

中井英夫―虚実の間に生きた作家 (KAWADE道の手帖)

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小説家という職業 (集英社新書)

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