『ヴィーナスの命題』(真木武志/角川文庫)

ヴィーナスの命題 (角川文庫)

ヴィーナスの命題 (角川文庫)

「多様な価値観の共存する成熟社会、おおいにけっこう。しかし多様化ではなく細分化の極まりだと嘆くのが現実の民草である以上、深く広い連帯としての”大きな物語”が切実に求められてるってこと。民草はもう意味を知っている。知ってしまったからには、見失ってはいても完全に捨て去ることなんてできるはずがないんです。意味を求めてしまう物語の呪縛は普遍であるってこと。いまこの時代にこそたてられるべきなんだ。それがインテリの使命ってもんでしょう」
(本書p308〜309より)

 本書は第20回横溝正史賞最終候補作となり、選考委員の賛否両論の評価の末、受賞そのものは逃したものの全面的な改稿を経て2000年に刊行された作品が文庫化されたものです*1。賛否両論なのは読んで納得です。一人称と三人称の描写が入り混じり、視点人物も次々と入れ替わり、お世辞にも読みやすいとはいえないです。また、作中で発生する事件そのものはシンプルなのに登場人物たちの思考は妙に晦渋でアンバランスです。割り切れないお話が苦手な方にはオススメできない作品です。
 で、巻末には選考委員だった綾辻行人の推薦文がついているのですが、そこでは、

登場人物のほとんどが高校生で、しかも現実の学校には絶対に存在しないだろうと思われるような連中ばかりなのだが、それがまた良い。確かに現実には存在しないかもしれない。けれど十代の一時期、僕たちはみんな多かれ少なかれ彼らのような部分をどこかに持っていたはずなのだ。それをデフォルメして造り上げた、何とも切なく愛おしい学園世界。そしてそこで起こる事件は、そういった世界だからこそぎりぎりの説得力を持ちうる展開を見せ、意表を突く結末へと向かうのである。
(本書p388より)

と評されています(ちなみに、綾辻行人は”賛”に回った選考委員です)。
 10年前だったら私もこうした評価を全面的に肯定していたかもしれません。ただ、刊行から10年経った今、場末で書評を細々と書きながらネットの各所をこそこそうろうろしながら感じることと重ね合わせますと、本書で描かれている学園世界は正直いって私にはあまりにも気持ち悪く思えてくるのです。
 学園世界のデフォルメなら別に構いません。それなら私自身にだって心当たりはありまくりですし、厨二病*2だってどんとこいです(笑)。ですが、ネットの界隈をうろうろしていますと、本書の登場人物のようなやり取りは割りと普通に行なわれているように思うのです。ネットというオープンな場において幾人かの固定された人物のみで閉鎖的なコミュニケーション・仲間内限定での深読み。そうしたやり取りは内輪向けのものでありながら外部の目を意識して行なわれます。メンバーも自らのキャラというものを自覚し作っています。そんなコミュニティの会話は外部から一見すると自由なように見えて実はとても閉鎖的です。つまり、多様化ではなく細分化が行なわれているという、そんな感じのコミュニティです。
 このようなコミュニティのあり方をミステリ読み的な文脈で安易に肯定してしまいますと、それはミステリというジャンルの衰退につながっていくように思えてならないのです。
 本書巻末の解説で佳多山大地は以下のように述べています。

本作は、なにより青春小説として輝きを放っていた現代本格(いわゆる新本格ミステリ)の可能性の中心にその座を占めるものであると同時に、00年代において「セカイ系」と名付けられたサブカルチャーの一潮流(中略)をあらかじめ批判的に乗り越えようとした”予言の書”めいてさえいると言っていい。
(本書p396より)

私もまた本書の物語世界を批判の対象として把握するこうした読み方に非常に共感を覚えます*3。そういう意味で、本書を刊行直後ではなく10年後の文庫化によって初めて読むことができたのは幸運でした。

*1:長門有希の100冊にも選ばれてますね(笑)。

*2:「十代の一時期、僕たちはみんな多かれ少なかれ彼らのような部分」など、今風のネット用語でいえばまさに厨二病でしょう。

*3:でもって、本書を傑作と評価するのにはあまり共感できません。いや、悪くはないと思いますが……。