『聯愁殺』(西澤保彦/中公文庫)

聯愁殺 (中公文庫)

聯愁殺 (中公文庫)

 以前、メタ小説に関する覚書なる雑文を書いたことがありますが、あれから3年以上の月日が経ったというのに件の問題意識について何の進歩も発展も見出すことができていないというのは我ながら苦笑せざるを得ません。
 なので、メタ小説あるいはメタフィクションについては上記リンク先のように私は考えておりますが、そうしたメタフィクションとメタミステリとが異なるものであるというのは、本書巻末の解説において氷川透が述べている(もっといえば芦辺拓が指摘している)通りで、メタミステリというからにはミステリについてのミステリ、つまりは「謎解き物語であるミステリの謎を解くミステリ」(本書解説p343より)であるべきです。別の言い方をすれば、ミステリ読みのためのミステリ、といってもよいと思います。本書はそうした読者にとっては堪えられない魅力を持った一冊なのは間違いありません。
 多重解決式のような構成で語られる本書の第一の謎は、一礼比梢絵は何故危うくその命を奪われそうになったのかという”動機”の解決です。普通のミステリであれば「犯人は誰か?」や「どうやって殺したのか?」といったフーダニットやハウダニットが一番の焦点となるところ、本書はともすれば「どうでもいい」の一言で片づけられてしまう動機、すなわちホワイダニットが論点となるところから「おや?」と思わされます。
 そんな論点を起点として〈恋謎会〉の面々によって語られる推理の数々ですが、やれミッシング・リンクやらABC理論やら性別誤認やらといったミステリにおいてお馴染みのテーマが次々と持ち出されてきて、それまで自明にしてシンプルだと思われていた本筋までもやがてあやふやなものとなっていきます。ただし、ここで行なわれる推理合戦はいわゆる多重形式ものとは趣を異にしています。それは、こうした推理合戦の最中に新たな証拠・新事実が次々と明らかになってくるからです。「必要な手がかりは示すべし」というフェアプレイの原則*1の下に行なわれるのが推理と考えるのであれば、本書の推理合戦は実は推理のための前提に過ぎなくて、しかもそうした「証拠の後出し」は物語の早い段階から行なわれます*2。あくまで全体としての仮説と検証作業に過ぎなくて、しかし、そのように理解することは何も本書の価値を低く見ることになるわけではなくて、むしろ本書の価値を極めて高く評価することになると私は考えます。
 2010年9月から10月にかけて、大阪地検特捜部での証拠改ざん事件が明らかとなりました(参考:大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件 - Wikipedia)。捜査においてある程度の”見立て”、ミステリ風にいえば仮説を立てるのは当然で、それに基づいた捜査が行なわれるのもまた当然ですが、その過程においてそれとは異なる証拠が発見されれば、新たな仮説を立て直して捜査を行い証拠調べを行い検証するのもまた当然です。そうした当然のことが行なわれず、それどころか証拠の改ざんによって誤った”見立て”があわや真実とされてしまうところだったのが本件事件です。フェアプレイが真に求められるのはミステリよりもむしろ現実の側なのです。
 本書が単行本で刊行されたのは2002年ですから、本件事件との無関係なのは間違いありませんが、すぐれた作品はときに時代を超えて真価を表わすことがあります。本書はまさにそうした例だといえるでしょう。最初に「ミステリ読みのためのミステリ」といっておきながらあっさり前言撤回しますが、裁判員裁判が施行されて誰もが推理合戦に参加することを覚悟しなくてはならなくなった今だからこそ、多くの方に読まれて欲しい傑作です。オススメです。

*1:【参考】「フェアプレイと叙述トリック」についての落穂拾い - 三軒茶屋 別館

*2:なので、私は本書を「毒チョコ」形式の物語として紹介したり、あるいは”「毒チョコ」のように見えて実は違う”といった説明を本書に関して行なうことをネタバレと解するのは不適切だと思っています。