『もう誘拐なんてしない』(東川篤哉/文春文庫)

もう誘拐なんてしない (文春文庫)

もう誘拐なんてしない (文春文庫)

刑法第224条(未成年者略取及び誘拐) 未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処する。 

 本書の第一章の章題は「狂言誘拐」です。狂言誘拐の定義は定かではありませんが、一般的には被害者の同意が得られているために犯罪行為に該当しない誘拐と解されているのではないかと思います。
 ところが、本書で誘拐される花園絵理香は17歳の女子高生で未成年なので、刑法的には224条の未成年者略取及び誘拐の罪の条文が問題となりますが、本条の対象となる保護法益には争いがあります。すなわち、1)被拐取者の自由、2)被拐取者に対する監護権、3)原則として1)であるが2)も含む、という3説が対立しています。で、一般的には3)説が通説とされています。なので、いかに被拐取者である絵理香の同意があるとはいえ、未成年者を保護者に無断で連れ回している本件の場合には、処罰価値は低いと思われますが、誘拐に当たらないとは断じ切れず、狂言誘拐ともいえないように思います。
 とはいえ、

「君のやったことは法律上はどうかしらないが、この世界では非難されることではない」
(本書p241より)

ということで、実際のところ特に気にするようなことでもないのであしからず(笑)。で、「この世界」というのは、広い意味ではミステリ的お約束のことを指すと解されますが、作中においてはヤクザの世界のことを指します。そう、花園絵理香はヤクザの組長の娘さんなのです。
 ヤクザの組長の娘さんを図らずも誘拐して身代金を要求することになってしまった主人公の翔太郎。関門海峡周辺を舞台としたご当地限定のマニアックな知識がふんだんに盛り込まれたコメディタッチの誘拐劇は身代金を巡る駆け引きのみならずユーモアもたっぷりで読んでて楽しいです。本書巻末の解説で、

本格ミステリーとユーモアは自分の中では一つです。好きな笑いのタイプは前振りがあって落ちがあるものだし、本格ミステリーも伏線があって、それを回収していきます」
(本書p318より)

という著者の言葉が紹介されていますが、そんなポリシーがそのまま体現されているのが本書だといえるでしょう。
 ただ、本書は誘拐事件だけではなくて殺人事件も発生するのですが、途中から誘拐よりもそちらの謎解きの方がメインになってしまいます。その点、誘拐ものと期待して本書を手に取った者として不満がないでもないです。いや、誘拐ものとしても工夫・趣向は凝らされていますが……。さらに、メインの大仕掛けはやっぱり殺人事件の方なのですが、こちらで用いられているトリックが本書の雰囲気にそぐわないように思うのも不満な点です。いや、仕掛けとしては見事だと思います。ただ、キャラクターに素直に感情移入しながら読み続ける本書のようなタイプの作品でこの手のトリックを用いてしまうのは、読者的にも作者的にも損な気がしないでもないのです。
 しかし、上述したような不満は些細なものです。読んでるときは楽しかったですし読後感もとても良かったです。メイントリックが少々ミステリ読み向けな気がしますが、それを差っ引いても広くオススメできる一冊です。