『アイ・コレクター』(セバスチャン・フィツェック/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アイ・コレクター (ハヤカワ・ミステリ 1858)

アイ・コレクター (ハヤカワ・ミステリ 1858)

「戦利品だとか記念品だとか――それらは低俗なミステリに登場するプロファイラーが、犠牲者の身体の一部が欠けているとき、最初に思いつく推理です」彼は強くかぶりを振った。「違います。思うに、目の収集人という呼び名にわれわれは騙されているのです。彼は収集人なんかではありません」
(本書p264より)

 ベルリンを震撼させる連続誘拐殺人事件。それは、子供を誘拐した上で母親を殺害し、その母親の手に持たせたストップウォッチの制限時間以内に父親が子供を発見できなければ、その子供を殺害するというものだった。しかも、殺された子供がみな左目を抉り取られているという手口から、犯人は”目の収集人”と呼ばれていた。元ベルリン警察の交渉人であり、今は新聞記者として凶悪犯罪を取材しているツォルバッハはこの事件を追いかけるが、犯人の罠にはまり容疑者とされてしまう。彼は特異な能力を持つ盲目の女性の協力によって独自の捜査を進めるが、真相は思いもかけぬもので……といったお話です。
 本書は、章立て・ノンブルが逆になっています。すなわち、エピローグ、405頁から始まって、最後が1頁になるという変わった構成が用いられています。発想としてはクリスティ『ゼロ時間へ』などに近しいものだといえます。ですが本書の場合、章立て・ノンブルが逆なだけで、作中時間が逆行するわけでもありませんし、ストーリーとしては”目の収集人”としての容疑をかけられた主人公が自らの潔白を証明するために、そして何より被害者の少年少女の生命を制限時間内に救うことができるのか、という典型的なタイムリミット・サスペンス的展開を辿っていきます。なので、何ゆえこのような構成を用いたのかという作者の意図がなかなか読めなかったりしたのですが、最後の最後になって明らかとなる真実によってそれも明らかとなります。なるほど、確かにこれは終わりであり始まりでもあります。
 とはいえ、本書はサスペンスという割りには読みづらく、お世辞にもリーダビリティが高いとはいえません。その原因は本書の最重要人物である盲目の物理療法士*1、アリーナにあるのではないかと思います。
 というのも、巻末の著者あとがきおよび謝辞によって述べられているように、本書における目の見えない人々の世界についての描写は熱心な取材による裏づけがあってのものです。そのため、アリーナと主人公との間で交わされる目の見えない者と目の見える者との会話もまた、とても現実味のあるものとなっています。その一方で、アリーナは特異な能力によって本来なら見えるはずのないものを見ることができます。この能力は一転して現実味のないものです。このミスマッチが、読者がストーリーに集中するのをどうにもこうにも妨げているように思えてならないのです。とはいえ、アリーナの能力がなければ本書のストーリーはもとより、章立てとノンブルの逆行という本書の構成も意味を成しません。なので、仕方がないといえば仕方がないのですが……。
 そんなわけで、最後まで読むのに苦労はしましたが、そこで明かされる真相はそれなりに衝撃的なものであることは確かです。変わった本が好きな方であれば読んでも損することのない一冊でしょう。

*1:理学療法士と訳されるべきではないのかと思ったり。