『ガーディアン』(石持浅海/カッパ・ノベルス)

ガーディアン (カッパ・ノベルス)

ガーディアン (カッパ・ノベルス)

 『顔のない敵』は対人地雷をテーマにしたミステリ短編集でしたが、対人地雷の目的は一義的には領土の防衛にあります。対して、本書の”ガーディアン”は、土地ではなく特定の人物のみを守ります。あたかも守護霊(スタンドでもいいですが・笑)のように。本書には間章を挟んで2つの中編が収録されていますが、ともに”ガーディアン”を物語の軸としながらも方向性の異なる物語が描かれているのが面白いところです。
 特定の人物のみを守るという”ガーディアン”の性質上、本書は科学と魔法の区別などというようなことを特に考えるまでもなく、魔法的な要素が盛り込まれたSFミステリです。そうしたミステリとしてのルールを前提として、なぜその現象が発動てしまったのか? が問題となるのが1つ目の中編『勅使河原冴の章』です。冴の亡くなった父親が”ガーディアン”となって悪意から彼女を守っています。それが過失や事故といったものであればバリアー程度の役割しか果たしませんが、積極的な悪意に基づく攻撃の場合には手痛い反撃を食らわします(例えば、電車の中で冴に触った痴漢はその指をすべて折られてしまいます)。
 ”ガーディアン”を、電車内での痴漢冤罪の恐怖から生まれる女性のバリアーを何となく匂わせることで、抽象的なイメージのレベルでその存在感を確たるものにしようとしているところが巧妙だと思いますが、そうしたガーディアンの存在を周囲の人間が感得したところで発生する”事故”。その真相を関係者のみで突き止めようとするスタンスには同作者の『セリヌンティウスの舟』を彷彿とさせるものがあります。
 本作のミステリとしてのロジックは小粒なもので、その真相もさして意外なものではありませんが(ただ、やはりその”動機”には少々無理があると思うのですが…)、会社内での人間関係や役割に”事故”が及ぼす波及効果みたいなものが変に丁寧に描かれていて、正直そちらの方が個人的に興味深かったです。
 2つ目の中編『栗原円の章』でも、やはり”ガーディアン”に守られる栗原円が中心人物となりますが、その描かれ方は異なります。2編とも三人称視点で描かれていますが、冴の章は冴の視点を通した一元的描写になっています。ずっと”ガーディアン”に守られてきて、その存在を絶対のものと確信している冴の視点を通すことが、ミステリとしての疑問と解決を生み出すのに必要だったからです。
 一方、本作の円の章では、同じ三人称でも多視点描写が用いられています。円の友人である菜々子や、円と菜々子たちの脅威となるテロリストたちの視点が様々に切り替えられてその内面が語られることで、”ガーディアン”というルールを巡る一種のデスゲームが描かれています。ルールによって生じた過去を読み取るのが冴の章なら、ルールを利用して未来を手に入れるのが円の章です。多視点描写でありながら円の視点で語られることがないのも、それが読者を引きつけるサスペンスだからです。
 中編2作ともにお世辞にも趣味がよいとはいえませんが、オチはちゃんと付いているので落ち着きは決して悪くはありません。そんな微妙で不思議な読後感なだけに、作者のファンにはオススメできますが、そうでない方には恐る恐るオススメしておきます(笑)。