『麗しのオルタンス』(ジャック・ルーポー/創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

 待った! 待った! 待った! 〈語り手〉の役割はあくまでも〈私〉と名乗り、ある出来事がその身に起こったとき(あるいはむしろ起こったあとで)、その出来事が語られるべきことだと〈著者〉が判断して初めてその出来事を語ることにある。〈語り手〉はいかなる場合においても〈著者〉の代理をすべきものではなく、ましてや物語の登場人物に成り代わってしゃしゃり出てくることなどあってはならない! 〈読者〉の利益を考えたことがあるのか? かてて加えて、ほかの小説の一場面をそっくり剽窃するとは何事か! もし仮にそれが小説家の仕事だと〈語り手〉が思っているなら、フランス文学の将来が思いやられる! まあ、この辺で本題に戻ろう。ただしここからは本来〈語り手〉が語るべきことを、彼の名において語ってもらうことにしよう。
(本書p67〜68より)

 本書は、一応ミステリ(作中の言葉を借りれば、一種の探偵小説)です。しかしながら、まともなミステリではありません。確かに捜査すべき事件(〈金物屋の恐怖〉なるものを事件と呼んで良いのなら、ですが。)が起きて、それを調べる捜査官二人と彼らに同行する語り手、裁かれるべき犯人、といったミステリとしてのパーツはそれなりに揃ってはいます。ですが、とにかくいろんな意味でまともなミステリではありません。
 筒井康隆『虚人たち』(中公文庫)という作品があります。小説における「人物」「時間」「事件」の3点についての批評的精神を全面に打ち出したメタフィクションですが、本書でもそれと同様の試み(というか悪ふざけ)が行なわれています。事件はいつから始まるのか? いつから語り始めなければならないのか? 事件の終わりをどのように説明しなければいけないのか? 説明が終わったことを説明しなくてよいのか? 物証が物証であることの保証がどこにあるのか? 複数の視点から語られる出来事と出来事の関連性は? 猫の視点ですら語ることができるのに、作中の登場人物の一視点から見える風景に配慮しなければならないのか? などなど。
 本書は語り手の問題・視点の問題にとても自覚的で、非常に示唆に富んだ問題提起がなされています。ただし、実に奇妙奇天烈な手法によってですが。著者とは別人格の語り手であることを自覚している語り手の存在。ということでしたら、酒見賢一の『語り手の事情』(文春文庫)という傑作があります。本書の場合にもそれに近い試みがなされてはいます。しかし、著者は著者であって語り手ではないので一緒にしてもらっては困る、みたいなことを言っておきながら、作中の語り手の視点からは決して分かりえない視点・描写が頻発します。ただ、それも語り手が小説として書いたものである、ということなら問題ないのですが、本書の場合には註釈で著者と語り手による罵り合い(挙句の果てに校正者まで登場!)が始まってしまいます。やれやれ(笑)。
 このように、メタフィクションとしての趣向が存分に凝らされている反面、作中の舞台となるフランスのとある街中の雰囲気は実にしっかりと描かれています。訳者の解説によれば、著者が実際に住んでいた通りが舞台のモデルとなっているとのことなので、街の造りやそこに暮らす人々の生活風景などが活き活きと描かれているのは道理ですが、実験的小説だからこそリアリティを疎かにしないことで、その実験性をより引き立てることを狙ったものだと考えると実に憎たらしいですね(笑)。
 また、登場人物たちの心情や心象なども、ときに微細に描かれます。主に薄着でパンツはいてない女性の描写や、あるいは恋愛の衝動からベッドシーンまでを描いたりとかの方向で(笑)。あざといといえばあざといですが、こうした心理描写については筆を存分に振るう反面、読者に対して犯人を指し示すような描写については途端に慎重になるミステリの描写を皮肉っている意味もある、と好意的に解釈しておきましょう。
 小説を小説という形式でおちょくった小説ではありますが、読後感は決して悪いものではありません。一風変わった小説をお探しの方に強くオススメの一冊です。

虚人たち (中公文庫)

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語り手の事情 (文春文庫)

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