『ガラパゴスの箱舟』(カート・ヴォネガット・ジュニア/ハヤカワ文庫)

ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)

ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)

 1986年。世界的な経済恐慌と戦争と疫病の蔓延によって人類は滅亡の危機に瀕していた。そんな中、ガラパゴス諸島遊覧の客船に乗船していたわずかな人々は、図らずも人類の生き残りとなる。その後、百万年を経ることになる人類の子孫として……。
 というようなお話ではありますが、何ともつかみどころのない物語です。本書が描こうとしているのは百万年という長いスパンでの人類という種の歴史です。そのはずですが、本書で主に描かれるのは、やがて人類の子孫となる数少ない人物と、彼らに少なからず関わっていた人物といった特定の人物の人生と心情です。
 その一方で、彼ら一人ひとりの運命を徹頭徹尾書くことには執着がありません。本書には独特の手法が用いられています。登場人物の死が近づくと、何とその人名の頭に星印(*)が付くのです。

 ちなみに、特定の人名の頭に星印をつけるこの手法は、この物語のおしまいまで継続され、登場人物の一部が、まもなく体力と狡知の面で究極のダーウィン的試練にかけられることを、読者に予告することになるだろう。
(本書p32より)

 まさに究極の死亡フラグとでもいうべき手法ですが(笑)、これによって、その登場人物の死は劇的なものではなくなります*1
 本書の語り手も独特です。この語り手は、「わたし」という一人称でありながら、人の心を読み、人の過去に関する事実を知り、壁を透かして物を見たり、一度にいろいろの場所に存在したり、この状況あの状況がどうして生まれたかをとことん追求したり、人間のすべての知識を入手することができます(本書p323参照)。こうした語りには、普通は三人称による神の視点からの描写が用いられます。しかしながら、本書ではそうした神の視点を選択するわけにはいきません。なぜなら、本書はダーウィニズムがテーマの物語だからです。つまり、進化の過程において神の存在を肯定するわけにはいかないのです。では、作者はどうやってこの問題を解決したのかといえば、別にもったいぶるようなものでもないと思いますが、一応秘密にしておきましょうか(笑)。語り手についてのこうした問題意識は、酒見賢一の『語り手の事情』(文春文庫)にも通じるものがあってとても興味深いです。

 長い目で見れば、生き残りはやはり似たりよったりで、最も獰猛な闘士ではなく最も効率のよい漁師であるだろう。この島々では物事がそのように運んでいくのだ。
(本書p236より)

 このように、本書は、ダーウィンの進化論・種の生き残りにおける自然選択の法則を人間社会に適用させた社会的SFです。社会の変化によって人間の人間らしさが失われていきます。喪失を描くことによって、その裏返しとして人間性というものが表現されています。ヴォネガットが描く旧人類への哀切は、暗いのか明るいのか楽しいのか悲しいのかスケールが大きいのか小さいのかよく分からない、どこか飄々とした物語です。
 お世辞にも「面白かった」とはいえませんが、人名につく星印や特殊の語り手といった独特の手法に併せてヴォネガット特有の雰囲気が味わえる一品として、ひっそりとオススメしておきます。

*1:ちなみに、この手法が応用されているの漫画が山本直樹『レッド』です(『文學界』2008年10月号「特集 マンガをブンガクする」所収の桐野夏生山本直樹の対談参照)。