『向日葵の咲かない夏』(道尾秀介/新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

 夏休みを迎える終業式の日。小学四年生のミチオは先生に頼まれて欠席した級友Sの家を訪れた。しかしそこで彼が見たのは、首を吊って死んでいたSの死体だった。しかし、知らせを受けた警察が駆けつけたときには、その死体は消えてしまっていた。それから一週間後、Sは蜘蛛に生まれ変わってミチオの前に現れた。Sに頼まれたミチオは、事件の真相を追い求めることになる……。
 といったお話です。初っ端から「生まれ変わり」という現象が発生しますので、超常現象を前提としたSFミステリなのかと思いきや、事件そのものは本格ミステリとしては実に平凡なものですし*1、捜査の進展もまた地に足の着いたものです。
 では、いったい何のために「生まれ変わり」などというものが作中で用いられているのかといえば、これはもう読んでいただくよりほかありません。いや、ホントに凄いものを読ませていただきました。お世辞にも明るく楽しいお話だとはいえませんが、それでもあえてオススメします。
(以下、本書の真相に触れていますので既読者限定で。)
 自己の内面と外界との対立という図式が描かれている作品において、いわゆるセカイ系と呼ばれる世界観を有する作品の多くは砂糖菓子の弾丸を周囲に撃ちまくることで対立関係が表面化しています。しかしながら、誰もがそんな弾丸を撃ちまくるとは限りません。外界が変わらないのであれば自己の内面世界の方を変えるしかなくて、それもまた一つの方法でしょう。そうして作られた一つの主観的物語世界。本格ミステリという人工的な様式を有効利用しての物語の構築は、絵空事を超えた説得力で読者に訴えかけてきます。『姑獲鳥の夏』には衝撃を受けたとインタビューで答えていますが、その衝撃がフレーム問題として本作には大胆に取り入れられています。
 本書は、ミチオの視点である”僕”という一人称視点の中に、泰造老人の視点である三人称視点が混ざった構成になっています。一人称視点では登場人物の主観が描かれる一方で、三人称視点ではそれよりも客観的な視点から描かれるのが通常ですから、普通は一人称視点の上位に三人称視点は位置することになります。ところが、本書の場合では、三人称視点が一人称視点の中に取り込まれてしまいます。いわば主客の逆転現象です。
 それは、内面世界が外界に勝利したというような単純なものではありません。ミチオ自身が自らの世界・物語の歪みを認識して、その上で内面と外界とを調整することによって生まれた解決はまさに綱渡りですし、それはまた本格ミステリ的な技巧の上での綱渡りでもあります。
 いつまでも紡がれ続ける物語という名の綱渡り。内面と外界とのバランスという意味では極めて危ういものですが、本格ミステリとしての技巧という意味では絶妙です。そうした技巧や全体の構成については黄金の羊毛亭さんの感想(特にネタバレ感想)を読んでいただきたいのですが、そうした技巧的な素晴らしさが小説の面白さとしても活きています。本書がまさに傑作である所以だといえるでしょう。誰もが物語の書き手として生きているからこそ、本書のような救いのない物語であっても、そこに共感して感動してしまうのでしょうし、物語が読まれ続けていく理由もまたそうしたところにあるのだと思いました。

*1:死体の消失なんて珍しくも何ともありません(笑)。