『銀河英雄伝説10 落日篇』(田中芳樹/創元SF文庫)

銀河英雄伝説 〈10〉 落日篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 〈10〉 落日篇 (創元SF文庫)

わたしどもには、歴史と伝説との間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考えへることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。わたしは、其で、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見たのです。この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂くことです。
『身毒丸』(折口信夫/青空文庫)より

(以下、既読者限定で。)
 伝説と歴史はどのように違うのでしょうか。伝説を辞書で引きますと、

(1)口承文芸の分類の一。具体的な事物に結びつけて語り伝えられ、かつては人々がその内容を事実と信じているもの。次第に歴史化・合理化される傾向をもつ。言い伝え。
「―上の人物」
→昔話
(2)言い伝えること。また、言い伝えられること。うわさ。
「―の誤りかと存じて候へば/太平記 17」
でんせつ【伝説】−goo辞書

とされています。そうしますと、歴史=事実で、それを元にした言い伝え=伝説、ということになるでしょうか。しかしながら、過去にあったものとされている歴史上の事実にしても、書き手(もしくは語り手)という何者かを経由しないわけにはいきません。書き手は、それ自身の認識や価値観、世界観といったものを有していますし、そうしたフィルタを通して歴史というものは記述されていきます。そうである以上、完全に客観的な真実などというものを歴史に求めるわけにはいきません。何が事実で何がそうでないのかは絶えず探求されていく必要があるのです。したがって、歴史と伝説の区別は相対的なものにならざるを得ないのです。
 しかし、歴史学というのは単にそのような事実と虚構のふるい分けのみに真価があるわけではないはずです。事実と虚構との区別にとらわれない史学の力。史論の力。そうしたものを、折口信夫は『身毒丸』で表現しようとしました。そうした試みは田中芳樹によって継承されました。架空歴史小説という壮大なスケールで体現された小説。それが『銀河英雄伝説』なのです。
 本シリーズは三人称多元描写によって記述されます。幾多の登場人物の運命に思いを馳せることで、銀河の歴史という大きな流れが描かれつつ、ときにはそこに浮かぶ一個人の細かな心情が描かれたりして、そうしたメタ読みと深読みの両方に耐えうるだけの圧倒的な世界観が本シリーズの魅力です。
 三人称視点の小説は神の視点から語られている、というようなことがいわれます。しかし、本シリーズの場合は少し違います。神の視点と後世の歴史家の視点とが巧みに使い分けられています。例えば、ロイエンタールの最期の言葉。神の視点を全うしようとすれば、登場人物には答えが分からずとも、読者にだけはそれをはっきりと示すことができたはずです。ヤン・ウェンリーの最期の言葉のように。また、オーベルシュタインの最期*1の行動の意味にしても、その真意を神の視点から読者に明かすこともできたはずです。しかし作者はそうはしませんでした。そこでは絶対的な真実を排し、後世の歴史家と同じ視点に読者を立たせることで、相対的な真実しか得ることのできない”真実の歴史”というものを読者に提示したのです。
 小説でありながら歴史でもある本シリーズは、さらなる伝説として読者の心の中に残り未来を紡いできます。事実や虚構といったしがらみから開放されることで、その歴史は「反時代性」を有することなります。その「反時代性」こそが後世に語り継がれる原動力となっていきます。それが史学と史論が求める効果なのだと思いますし、その具体的な成果が本シリーズなのです。
【参考文献】『かたり 物語の文法』(坂部恵ちくま学芸文庫

かたり―物語の文法 (ちくま学芸文庫)

かたり―物語の文法 (ちくま学芸文庫)

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*1:個人的には、やはり意図的なものではなかったかと思います。ラインハルトを巡るヒルダとオーベルシュタインの潜在的な対立の構図は、作中ではヒルダの側からのみ語られてきました。そして、その点についてはオーベルシュタインだって十分自覚していたはずです。さらに、現在は皇帝ラインハルトと皇妃ヒルダの下、オーベルシュタインとミッターマイヤーが同率ナンバー3というパワーバランスにあります。しかし、ラインハルトが死去し乱世が終結すれば必然的にミッターマイヤーの地位は低くなります。そうなりますと、ナンバー2不要論を唱えていたオーベルシュタイン自身がナンバー2になってしまうという皮肉な事態が予想されます。だとすれば、ラインハルト亡き後の帝国の将来を考えたときに、あえてそうした行動を選択したのではないかと私には思えてなりません。