『天使のナイフ』(薬丸岳/講談社文庫)

天使のナイフ (講談社文庫)

天使のナイフ (講談社文庫)

事件の流れの途中に生ずる「空白」を埋めるために、「嘘」とまでは言いませんが、フィクションが入ってくることがある。そのフィクションがまた無制限に歯止めなく入ってくると、これは大誤判になっちゃうんですけれども、そのフィクションを、どういう歯止めをかけたうえで導入するのか、あるいは導入してはいけない場合なのか。これは証拠上認め得る範囲に属するフィクションなのか、あるいはその範囲を超えてしまっているのか、ということを、経験的にわれわれはいつも扱っているわけです。そういうことの整理が、こんご問題になるかもしれない。そして、それがきちんとした形で整理できることなのかできないことなのか、それすら私たちには分かりません。しかし裁判の中心にはそういう部分があることは事実だと思います。
『フィクションとしての裁判―臨床法学講義』(大野正男・大岡昇平朝日出版社)p247より

 第51回江戸川乱歩賞受賞作です。
 生後五ヶ月の娘の前で妻を殺された桧山貴志。しかし犯行に及んだ3人はいずれも13歳だったために罪に問われることはなかった。それから四年。その事件の犯人の一人が何者かに殺され、アリバイのなかった桧山にも疑いの目が向けられる……といったお話です。
 本書のテーマは少年犯罪です。主人公である桧山貴志は少年によって妻を殺されていますから、物語の最初の時点では被害者という視点からのみ少年犯罪というものを考えています。しかし、妻を殺した犯人の一人が何者かによって殺されるという事件が起きたことによって、桧山は再び少年犯罪というものに向き合うことになります。被害者の視点といっても、少年犯罪の問題を考えるときにマスコミが取り上げがちな厳罰主義と保護主義との対立といったステレオタイプなものではありません。いや、確かに桧山自身は厳罰主義よりではありますが、しかしながら保護主義の主張にまったく耳を傾けないわけではありません。厳罰主義と保護主義との対立と葛藤は桧山自身の中にも絶えずあります。
 しかし、自分の妻が殺された事件と少年が殺された事件、そして、やがて浮かび上がってくる過去の事件についても調べていくうちに、厳罰主義や保護主義といったところとは別の問題と疑問が桧山の中に生まれてきます。
 なぜ殺されたのか? なぜ殺したのか? 人には他人の心・考えなど分かりません。身近にいる人の心も分からなければ自分の心すら分からないのが本当のところでしょう。ましてや、見ず知らずの殺人犯の心など、いくら手段を尽くそうが本当に本当のところなど分かるはずもありません。それは少年犯罪であろうがなかろうが同じことです。しかし、少年犯罪ではない普通の犯罪・殺人事件であれば、法廷という場において事件の状況や犯人の心理というものがそれなりに説明されます。そして、検察官と被疑者(弁護人)双方の主張を通しての事実認定の積み重ねによって、一応は納得の行く筋書きが裁判官によって紡がれます。それは、社会にとって必要なことであるのはもちろんですが、被害者と加害者を社会につなぐものとしても機能しています。
 しかし、少年犯罪にはそれがありません。いや、ないわけではないのですが、被疑者が少年と分かった時点で警察の捜査も強制力の行使が控えられますし、被疑者の人権的配慮のレベルも格段に高くなります。つまり、被害者は事件にアクセスすることができなくなってしまうのです。そこには、通常の犯罪の場合に事件関係者が得られる”一応の納得”というものがありません。
 もっとも、だからこそ少年犯罪を題材とした本書のような物語を描くことができたのは確かです。社会も被害者も事件にアクセスできないからこそ、そこにフィクションが生まれる余地と意義があるというのは皮肉以上の問題提起が含まれていると思いますが、それをここまで読みやすく、それでいて少年犯罪というものを多面的に捉えているのが本書の優れた点だといえるでしょう。
 本書で描かれているような問題意識を踏まえて、少年審判の傍聴を認める少年法改正案が成立しました。誰もが納得のいく答えが出せるような問題ではないでしょうが、それでも私は必要な改正だったと思っています。厳罰にしろ保護にしろ、現状を知らないまま考えても意味があるとは思えません。そして、つまるところ、それもまたフィクションに過ぎないのですからね。
【関連】『嘘の効用』(末広厳太郎/青空文庫)