『犯罪』(フェルディナント・フォン・シーラッハ/東京創元社)
- 作者: フェルディナント・フォン・シーラッハ,酒寄進一
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2011/06/11
- メディア: 単行本
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この事件には弁護の余地がなかった。議論すべきなのは法哲学上の問題だった。刑罰とは何なのか? 私たちはなぜ罰を科すのか? 最終弁論で、私はその根拠を見いだそうとした。理論は山ほどある。罰則が私たちを威嚇する。罰則が私たちを守る。罰則が再犯を躊躇わせる。罰則が不正に釣り合いをもたらす。ドイツの法律はこれらの理論に同意している。ところが今回の事件は、いずれの理論にも該当しない。
(本書p19より)
ドイツの高名な刑事事件弁護士である著者が、現実の事件に材を得て書いた犯罪にまつわる11の短篇集です。収録作は収録順に、「フェーナー氏」「タナタ氏の茶盌」「チェロ」「ハリネズミ」「幸運」「サマータイム」「正当防衛」「緑」「棘」「愛情」「エチオピアの男」です。
「フェーナー氏」は刑法についての本質論を無駄なく自然に物語として仕上げています。「タナタ氏の茶盌」のタナタとは登場人物の日本人の名前で、おそらくはタナカの間違いでしょう。茶碗でなく茶盌なのが目に付きますが、怨恨の怨の字と字の一部が同じだからですね、きっと。
だがそのとき、彼女には自分を表現するすべが他にないことを気づいてやれなかった。
(「チェロ」p63より)
「ハリネズミ」では「狐は多くを理解するが、ハリネズミにはただひとつの必勝の技がある」というギリシアの詩人アルキロコスの寓話が引かれています。いまいちピンとこない寓話ですが、検察が有罪を立証する場合には合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が求められるのに際し、弁護側が無罪を主張する場合には何かひとつそれを疑わしいものとする事実の立証がなされればよい、という刑事事件の原則をほのめかしているものだと思われます。
「幸運」は法廷によって真実が証明されることが被疑者にとって必ずしも悪いことばかりではないということを教えてくれます。「サマータイム」はチープな推理ドラマみたいな。「正当防衛」はあまりにも鮮やかな”正当防衛”の手口と身元を明かさない被疑者という居心地の悪くなる事件。「緑」は統合失調症の疑いがかかる被疑者にまつわる数奇な事件。「棘」は犯罪行為自体が避けようのない解決になっているという意味で、だとすれば果たしてこれが犯罪といえるのかどうか地味に考えさせられたり。「愛情」は、「緑」と同じく被疑者の精神状態が問題となりますが、守秘義務との関係で、最後のオチのあとに弁護士の置かれる立場が何とも皮肉です。
ドイツの刑法は罪刑法定主義だ。罪の重さで罰せられる。自分の行為で生じた責任がどれだけ重いかが問われる。(中略)当時の罰則は数学のようなものだったのだ。どんな行為にも罰則が正確に決められていた。現代ドイツの刑法はもっと賢い作りになっていて、実状に対応できるが、判断ははるかに難しくなった。銀行強盗は、必ずしも常に銀行強盗であるとはかぎらない。私たちはミハルカのなにを責めることができるだろう?
(「エチオピアの男」p217より)
「事実は小説より奇なり」といいますが、現実の事件に材を得て描かれた本書の物語は、理性的な文体によって「奇」から受ける衝撃的なインパクトが薄められています。結果として、いわゆる「奇妙な味」というべき読後感を伴う作品集に仕上がっています。弁護士の視点から犯罪における「犯罪者」を描いた条理と不条理の物語です。オススメです。
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