『ユージニア』(恩田陸/角川文庫)

ユージニア (角川文庫)

ユージニア (角川文庫)

 第59回日本推理作家協会賞受賞作です。
 推理作家協会賞を受賞してはいますが、本書はミステリのセオリーからは外れています。なので、普通にミステリを読みたいと思ってる方にはオススメしづらいです。証言と推論の積み重ねからは論理的カタルシスがなかなか得られません。読みやすい文章であるにもかかわらずリーダビリティは決して高くありません。一章ずつ丁寧に読む必要がありますし、味読にはある種の我慢強さが求められるのは確かです。
 まず、第一章からインタビュアーの問いかけが省略された証言という特殊な形式が採用されています。これには少々驚かされますが、それだけなら一人称多視点の亜種として理解することができます。しかし、本書はそんな単純なつくりにはなっていません。章が進むにつれて三人称視点による描写も混じってきます。一般にミステリにおいては三人称視点では虚偽の記述をすることはタブーとされています。なぜなら、それをやってしまうと推理の拠り所がなくなってしまい読者が真相をつかむことが不可能になってしまうからです。ところが、本書ではその三人称視点の客観性が否定されてしまっています。一人称視点と三人称視点の客観性の相対化は、語り手の世界観を理解する必要を迫られることにもつながってきます。すなわち、歴史学におけるメタヒストリーの小説化とでもいうべき様相を呈してくるのです。
 作中で、ノンフィクションのノンフィクション(p285)、という表現が使われていますが、本書はまさにそうした作りになっています。まず物語の中心には大量毒殺事件があります。それから十年後に、事件関係者が行なった事件の再調査と、それを基にして出版されたフィクションでもノンフィクションでもない小説(?)『忘れられた祝祭』。それから更に時が流れ、『忘れられた祝祭』の真相についての調査で得られた証言。本書の時間的視点位置はこれらの3つに大別されますが、そのどれにも分類できない中間的な視点時間と、そうした時間の広がりを断ち切る絶対的客観的視点時間からの記述もあります。
 時が経てば経つほどに、事件に対してメタな位置に読者は立つことができます。新たな調査は過去の調査を上書きし、その結果、かつてノンフィクションであったものがフィクションとなります。そして、それと同時に新たなノンフィクションが生まれることになります。そのようにしてノンフィクション性、つまりは現実性は徐々に高まっていきます。しかしながら、いくら調査を重ねても事件の核心に迫ることはできません。なぜなら、時間を巻き戻すことと、失われたしまった世界を取り戻すことはできないからです。そうであるならば、真実は現実の中にあるのではなく、虚構の中にこそあるのではないか。でもそれはあくまでも虚構であって、決して現実ではありません。つまり、ノンフィクションのノンフィクションであるということは、フィクションのフィクションであることと同義ということになるのです。そんな現実と虚構、真実と虚偽との境界が曖昧な世界を描くことに主眼を置いた小説。それが『ユージニア』です。
 通常のミステリであれば、真実という線によって探偵と犯人が結ばれます。しかし、本書にはそれがありません。そのため、真実は事件関係者に拡散してしまっていますし、その見方も各人によって異なります。本書では、個人と世界との対立という考えが随所に見受けられます。それは、ミステリ的な読み方としては、各人にそれぞれの世界観があるために真実もまた異なることの説明という意味があります。ですが、

 思春期の頃って、いっとき、何でも斜に構えた目付きで見てる時期があるじゃないですか。世界が自分と相容れない、敵対するもののように思えて、何かと大人を軽蔑する時期。ちょうどあの頃がそうでした。世間のことなんか知るもんか、こっちはそれどころじゃないんだ、そんな気分でしたね。
(本書p176より)

 だけど、今日び、世界は理解できないものを許さないでしょう。分からないと言ってはいじめ、得体が知れない、説得不能だと言って攻撃してしまう。なんでも簡略化・マニュアル化が進む。人が腹を立てるのは、理解できないからのことが多い。
 本当は、理解できるもののほうがよっぽど少数派ですよね。理解したからって、何かが解決できるわけでもない。だから、理解できない世界で生きていくことを考えるほうが現実的だと思うのは間違いでしょうかね。
(本書p191より)

このような内面と外界との対立構造は、「セカイ系」もしくは「中二病」と呼ばれる概念との関係性という観点から興味深く読むことができるのではないでしょうか。
 あるいは、私小説もそうです。私小説は実体験を基にした小説であるがゆえに、現実と虚構の区別が曖昧なものになりがちですが、その曖昧さを本書は虚構によって徹底的に表現しようとしました。それによって個人の内面と外界との対立という問題が浮かび上がってきているのですが、それもまた主私小説と主題としての共通性があります。通常のミステリとは少しずれているからこそ、本来ミステリといジャンルが内包している問題、隠されている問題が表出してきてしまっています。それが本書独特の面白さなのだと思います。
【関連】私小説とセカイ系についての雑文 - 三軒茶屋 別館