『夏の名残りの薔薇』(恩田陸/文春文庫)

夏の名残りの薔薇 (文春文庫)

夏の名残りの薔薇 (文春文庫)

 何とも評価の難しい作品です(苦笑)。普通の本格ミステリを期待して読むと痛い目を見るかもしれません*1。しかしながら、新手のアンチ・ミステリとして理解すればこれほど面白いものもないと思います。
 資産家の老姉妹によって毎年催される豪華なパーティ。山奥のクラシック・ホテルというクローズドな空間。互いに家庭を持つ姉と弟の近親相姦な関係。退嬰的でありながら緊張感のある雰囲気で始まる物語ですが、次の章へ進むと読者は何ともいえない戸惑いを覚えることになります。
(以下、既読者限定で。なお、歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』についても軽く言及していますので未読の方は念のためご遠慮くださいませませ。)
 いわゆるアンチ・ミステリといわれるもののひとつに、真実の相対性を主張することで解決を否定するタイプのものがあります。事実の組み合わせから出来上がる解釈の多様性の中から真実を導き出すタイプのそれと本書は、真実の相対性という点では共通しています。しかしながら、本書の場合は各人の抱える真実が事実すらも歪めてしまいます。すなわち事実と真実の相対化です。
 作者が本書で描こうとしたと思われる”記憶の改竄”もしくはフィクションの上書きによるノンフィクション化というテーマには非常に共感できます。例えばときどき冤罪事件というものがありますが、あれなどは検察側によって作られたフィクションがあわや裁判所によって真実の認定を受けてしまうことの危険性を如実に示しています。たとえ事実とは異なるものであったとしても、決められてしまった真実をもとに世界は回っていきます。本当の真実を知るのは無実の罪を着せられた被告人と真犯人のみという中にあって、二人は果たして自らが抱える真実を守り切ることができるでしょうか。本格ミステリで論理的な思考によって明らかとされる”真実”とは斯様に脆く儚いものなのです。
 そうしたテーマを描くために作者が採用した変奏曲に見立てた本書独特の構成は実に見事ですし、それによって浮かび上がってくる人間劇もとても印象的なものです。
 類似の先例としてまずは歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』が思い当たります。定まらない世界の終わりと始まり。しかしながら、『世界の終わり〜』が基本的には一人称からなる単元描写なのに対し、本書は一人称でありながら章ごとに語り手が交代していく一人称複元描写が採用されています。それぞれがそれぞれの物語を生きていて、それが他者に理解されることは決してありません。にもかかわらず、人はときに誰かと一緒に生きていると思うときがあります。それはたとえ錯覚に過ぎないとしても、錯覚とによって物語は干渉しあい、ときに共鳴します。
 変奏曲に見立てた構成という点では、最近刊行された筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』が思い当たります。主題の繰り返しという手法と、虚実の混濁という現象とで、両者には確かに共通のものがあります。しかしながら、ここでもやはり一人称単元か複元かで違いが出てきます。また、『ダンシング・ヴァニティ』は文章そのものの反復と繰り返しを楽しんでいますが、本書の繰り返しはそこまで露骨ではありません。もっと全体的な視野での繰り返しですので楽しみ方が違います。『ダンシング〜』は繰り返しを描きつつも最後には一人の人間の死という終わりを見据えています。人の奏でる音楽のすべてに終わりが訪れるように。一方、本書は例えればコンピュータが奏でるゲーム・ミュージックのようにエンドレスな曲です。第一変奏の最後で起きたことが次の変奏では起きなかったことになって物語が進んでいって、第二変奏で起きたことがまた起きなかったことになって次の変奏へと進んでいきます。起こったことと起きなかったことの食い違いは、あたかもデータが上書き保存されるかのごとく後に語られることが優位性を保つことになりますが、その齟齬は最後には解消されます。しかしながら、物語はそれによって閉じるどころか開かれたものとして終わりを迎えることになります。回り続けるメリーゴーラウンド。
 というわけで、私は本書を非常に高く評価してはいますが、しかしながら不満な点もいくつかあります。
 まず、『去年マリエンバートで』からの引用が多すぎます。本書を書く上で作者にとってそれがとても重要なものだったということはよく分かります。しかしながら、いくらなんでもここまで大量に引用しなくてもよいのではないでしょうか。構成云々以前に、これでは物語が閉じきらないと思うのですよ。
 もうひとつ。本書は章ごとに語り手が変わる一人称視点が採用されているのは上述のとおりですが、第三変奏p213にだけ”彼”という三人称がぽつんと入り込んでいるのです。これはいったい何なのでしょう? 一人称視点で語られているからこそ、それぞれの物語が特権的な立場を得られないまま本書の全体図が出来上がっているはずです。なのにこの三人称です。三人称という神の視点が入り込んでいるということは、ここだけは他とはレベルの違う確かな語りということになりますが、それで何か見えてくるものがあるのでしょうか? どうにも疑問です。私には単なるミスとしか思えないのですが……。ご意見募集します(笑)。(注:コメント欄のご指摘によって解決しました。)
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*1:もっとも、「本格ミステリ・マスターズ」というレーベルから刊行されてるのに本格を期待するなというのも我ながら無茶な話だと思いますが(笑)。