『ハッピー・バースディ』(新井素子/角川文庫)

ハッピー・バースディ (角川文庫)

ハッピー・バースディ (角川文庫)

 頼りになる旦那に依存気味の主婦作家あきらと思い掛けない受験の失敗でやさぐれてる浪人生の裕司。そんな二つの視点によって語られる日常と狂気(?)の物語です。
 新井素子の作品について語ろうとするとその独特の語り・文体に触れずにはいられないのですが、本書の場合は主人公のひとりが作家だということもあって、メタ小説としても読むことができます。そのため、そうした思いは特に強いものになります。
 本書は、基本的には”あきら”と”裕司”の二つの視点による三人称で語られます。三人称視点ではありますが、あまり客観的な語りではありません。むしろ、一般的な一人称語りよりも深いところまで視点となる人物の深層心理を描写しています。それこそ、表層から無意識に至るまで。普通の一人称では語りえないところにも踏み込んで語っています。そうまでしても分からないところ、語るのが難しいところがあって、そこが恐ろしかったり面白かったりします。
 そもそも、”あきら”という三人称の主語からして客観的ではありません。作中でも述べられている通り、”あきら”は後藤明で結婚して後は沢木明になのですから、”明”が主語になるのが自然なのです。それを、視点人物である”あきら”に配慮するかたちで”あきら”としているのです。無口で自分自身に自信の持てない”あきら”は一人称視点の語り手としては不足です。その意味で三人称視点が用いられているのは納得なのですが、その主観的な語りは、作者視点の描写がときどきカッコ書きで割り込んでくるまでに徹底しています。不安定な内面の描写が、三人称という”信頼できる語り手”によって語られることで、読者はその心理・理性と狂気とを逃れようのないものとして受け入れざるを得ないのです。
 作中では”私”という一人称の語りがもたらす効果についても触れられています。

 ”手記”というのは、普通、一人称の文章である。そして、一人称の文章の特徴は、”私”が主人公であること。”私””私”って、”私”が主張している文章。
 これは。かなりの確率で”下品”になる。
 世の中は、”私”以外のものが一杯あって、いや、”私”以外のものが多数派であって、それで出来ているものなのだ。だから、”私”のみを主張する、そんな文章は、余程気をつけて書いていても、細心の注意を払っていても、極めて自己中心的なものになりがちであり……ということは、非常に、簡単に、下品に、なりがちなのだ。
(本書p300より)

 これは作中の”あきら”の考えです。なので、これをそのまま作者である新井素子自身の考えと即断するわけにはいきません。ですが、一人称についてのこうした考えは新井素子自身の考え方というものを色濃く反映しているんじゃないかと、どうしても思ってしまいます。特に、三人称によって登場人物の主観的な部分を描き出す本書のような作品に出会うと、そんなことを考えずにはいられません。すなわち、一人称視点では視点人物を客観的に語り、その反対に三人称の場合では視点人物を主観的に語るという手法。本書巻末の解説で有川浩が、新井素子作品”は読者を共感させる力が強いのです(本書p381より)と述べていますが、その要因はそんなところにあるんじゃないかと思ったり思わなかったりしました。
 本書は2005年に文庫になったものですが、その前に2002年に単行本として刊行されています。なので、文庫版の作者あとがきにもありますように、電話のエピソードやストーカー*1といった執筆当時の時事的な背景なんかを想像して懐かしみながら読んでも面白いと思います。オススメの一冊です。

*1:ちなみに、ストーカー行為等の規制等に関する法律は2000年に制定されています。