『厭魅の如き憑くもの』(三津田信三/講談社文庫)

厭魅の如き憑くもの (講談社文庫)

厭魅の如き憑くもの (講談社文庫)

「ところで刀城さんは、この手のもんを信じる方かな」
 まるで肝心なことを訊いていなかった、とでもいう様子で当麻谷が彼を見た。
「そうですね……。信じた方が、そのお話が面白くなるのであれば、信じると思います」
(本書p180より)

 ホラーとミステリを融合させた作品で知られる三津田信三の本作は、ホラーとしてもミステリとしても圧倒的な濃度で迫る傑作です。
 ”はじめに”で語られる物語の不思議な構造。ネタバレ的な箇所については後回しにしますが(笑)、「紗霧の日記」、「取材ノート」、「漣三郎の記述録より」といった各登場人物の視点がつぎはぎに挿入されているその構造は、古典ホラーの傑作『フランケンシュタイン』をほうふつとさせます。戦後間もない日本の山村を舞台とした不可思議な事件。神々櫛村という怪異に彩られた因習が色濃く残る村を舞台とした事件を語る上で選ばれた三人の視点は、怪奇趣味と合理主義のバランスを維持する上で実に計算されたものとなっています。
 憑物の一族として生まれ憑座として重要な務めを果たしている紗霧の視点は、村に伝わる因習を代表するものといえます。一方で、神々櫛村に生まれながらもそうした因習に疑問を持ち意識改革の必要を感じている漣三郎の視点は、怪奇趣味と合理主義の中間に位置しています。そして、怪奇幻想作家として神々櫛村を訪れる刀城言耶の視点は、合理主義に立ちながらも怪奇趣味にも理解を示すという立ち位置になっています。
 紗霧の視点ではホラーらしく紗霧の感覚が重視された描写になっている一方で、作家である刀城の視点のときには、当時の日本の世相や憑物・蛇神信仰についての薀蓄といったミステリらしい設定の語りが重視されています。そして、漣三郎の視点が両者の橋渡しをすることになります。ホラー描写もミステリ描写もたっぷり描かれているため、本書は分量も内容も盛りだくさんとなっていますが、そうした理由があってのものなので、冗長に感じるようなことは一切ありませんでした*1
 ミステリとしては横溝正史的な雰囲気が承継されながらも、実際の民俗学の知見に裏付けられたモチーフを基にして語られる怪異は地に足が付いたものだけに、単純に作り話では割り切ることのできない恐怖を感得させられます。そうした恐怖を振り払うために探偵役の合理的な解釈・推理が求められるのですが、その推理は解決の段になっても決してスムーズにはいかない試行錯誤の連続で、どこまでも多様的な解釈を読者に突きつけ続けます。そうした果てに語られる意外な真相は、ホラーとミステリの融合の前評判に違わぬ境地へと読者を導きます。ホラーとミステリの両方の魅力が味わえる傑作として強くオススメの逸品です。
【関連】『首無の如き祟るもの』(三津田信三/講談社文庫) - 三軒茶屋 別館
(以下、ネタバレにつき既読者限定で。)

 僕自身がその渦中に飛び込む格好で関わった経緯もあり、最初は「僕」の一人称で書きはじめた。だが、それでは自分が見聞した事実しか記せない。数多の奇っ怪な出来事そのものを描写することは無理である。そこで次は三人称に変えて、しかも完全なる神の視点から物語る方法を取ってみた。これであれば作者は自在に、どんな場面であろうと誰の心の中であろうと記すことができるからだ。
(本書p10より)

 一読する限りでは本書の内容についての説明と思しきこの一文が、実はフェイクになっていたのには完全に脱帽です。確かに、この後に続く文章を読んでも三人称であることが保証されている箇所はありませんからね(苦笑)。
 つまり、三人称だと思っていたものが実は一人称であったということ、一人称を三人称と誤認させていたことが本書のトリックにして真相の確信なわけです。「神」ではなく「人」による支配という時代の流れを反映した結末としても理解できるのがとても意義深いです。
 これだけの長文作品であるにもこうしたトリックを実現することができたのは、作者の技巧もさることながら、主語の省略が自然であるという日本語の特性があってこそでしょう。巻末の解説にもあるとおり着想自体は先例のあるものではありますが、こうした日本語の特性を存分に活かした結果、日本を舞台にした日本人の作家が書いたものとして独特の魅力を生み出すことに成功していると評価できると思います。

*1:もっとも、読了するのにかなりの時間がかかったのは確かですが(笑)。