『華氏四五一度』(レイ・ブラッドベリ/ハヤカワ文庫)

華氏451度 (ハヤカワ文庫 NV 106)

華氏451度 (ハヤカワ文庫 NV 106)

――本のページに火がつき、燃え上がる温度……。

 書物を所有することが禁止された世界で、人々は娯楽としてテレビとラジオに没頭する暮らしを過ごしています。モンターグは書物をその所有者の家ごと燃やし尽くす焚書官の仕事をしています。彼は自らの職務に何の疑問も感じてはいませんでしたが、一人の少女との出会いによって何かがおかしいことに気が付き始める……。といったお話です。
 あらすじだけ読むと、書物対テレビ・ラジオといった情報媒体(メディア)間の対立みたいに捉えられてしまうかもしれませんが、そうではありません。テレビとラジオは自由に視聴することができるといっても、そこから流れてくるのは一時の享楽のために作られた娯楽番組だけです。それは人間から考える意欲を奪うための精神的な痛み止めに過ぎません。そこから流れてくる情報はすべて政府にうよって操作されたものです。
 つまり、そこに描かれているのは思想や信条、あるいは表現の自由や知る権利といったものが制限されている世界であって、本を燃やすという行為はそうしたものの象徴なのです。有川浩『図書館戦争』は検閲が実施されている世界で本を守る立場にある図書館隊の活躍を描いた物語ですが、本書の場合はそれとは反対に本を燃やす立場にある人物が主人公となっています。両者を対比して読むのも表現の自由の意義などを考える上でとても有意義でしょう。
 為政者はときに書物を忌み嫌います。ズーサック『本泥棒』ナチス政権下のドイツで書物が燃やされる様子が描かれていますし、サフォン『風の影』フランコ独裁政権下におけるスペインで検閲がなされるなかでの本を巡る物語が描かれています。また、巻末の解説によればブラッドベリは1950年代にアメリカで起きたマッカーシズムに触発されて本書を描いたとのことです。いずれにしても、『華氏四五一度』の世界は決して絵空事ではありません。
 表現の自由と知る権利は民主主義の根幹を支えるものです。なぜなら、国民が参政権を行使して自らの意思によって国を統治するためには、国政に関する情報に触れることと、それについての意見を自由に表明することが必要不可欠だからです。そのための知識と思想が体現されたものとして、本書において書物はとても重要な役割を担っています。存在が許されないからこそ、それがないことによる不自然と不自由とが際立っています。考えずに生きるか、それとも、考えて死ぬか。それは人間性への問いかけです。
 活字文化が象徴する精神の自由や文化的な営みというものを、ブラッドベリイデオロギーとして大上段に振りかざすのではなく、SF的な日常生活を造り出すことによって切々と浮かび上がらせています。それはときにたどたどしく、ときにはとても情熱的で、しかしながらどこか冷ややかです。
 焚書官を象徴する《火トカゲ》。それは書物を焼き尽くす炎の象徴ですが、燃え盛る炎の中でも生きられるその性質が逆に書物を象徴しているようにも読むことができます。何を燃やしているのか意識してしまったそのときから、燃やすものと燃やされるものの立場は逆転してしまいます。それに気付かせてくれるのが、書物という拳銃に込められた物語という銃弾の持つ力ということなのでしょうね。
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