『ゴーリキー・パーク』(マーティン・クルーズ・スミス/ハヤカワ文庫)

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

ゴーリキー・パーク 下 (ハヤカワ文庫 NV ス 10-4)

ゴーリキー・パーク 下 (ハヤカワ文庫 NV ス 10-4)

 モスクワのゴーリキー公園で雪に埋まった男女3人の射殺体が発見される。死体はいずれも顔面を刃物で削ぎ落とされ指先も切断されていた。事件の捜査を命じられた民警の主任捜査官アルカージ・レンコは、やがてソ連社会の暗部に触れることになってしまう……。というようなお話です。
 タイトルにもなっているゴーリキー公園は、作家のマクシム・ゴーリキー(参考:Wikipedia)を記念して作られたものですが、ゴーリキーのたどった運命は本書のテーマをそのまま象徴しています。
 トム・ロブ・スミス『チャイルド44』では、実際にあった事件を元にしながらも、個人対国家の構図を浮き彫りにするために80年代から50年代に移し変えたとしていますが*1、本書とネタやテーマがかぶってしまうのを避けた意味もあるんじゃないかと思います。いずれにしましても、『チャイルド44』を読んだ方であれば本書を読まない手はないでしょう。
 国家は間違いを犯さない。ゆえに、有罪でなければ裁判は開かれない。ゆえに、依頼人との関係を断ち切るのが弁護人の仕事である、というような、真実の解明とは無縁の司法制度。その中においてなお真実を追い求めようとする優秀な捜査官アルカージ。にもかかわらず、そうした優秀さすら、ソ連の社会にとっては憎むべきものになってしまいます。何ものにも捉われない自由な発想を基に物事を見つめ考えること。それが優秀な捜査官の条件です。しかし、思想の自由が制限された社会においては、そうした発想を持ち得る人物はそれだけで危険因子になってしまいます。形式的な法律の遵守よりも社会の利益が優先されるという偽りの法治主義。見せ掛けの自由主義。主人公のアルカージはお約束のように妻とうまくいっていませんが、そもそも自由な発言が許されない社会において、どうやって信頼関係を育めばよいのでしょうか?
 本書でアルカージが捜査することになるゴーリキー公園の事件ですが、彼が担当する前にKGBの少佐が乱暴な捜査を行ないます。民警の担当は国内犯罪、KGBの担当は国家の安全問題と役割が分けられているからですが、国内問題と国際問題との間に生まれる歪みにアルカージは嵌ってしまいます。冷戦下でのソ連アメリカとの間の断絶とも違う文字通り冷え切った関係。国家と個人の対立構図を解決するための手段のひとつとして亡命があります。敵の敵は味方ということですが、敵の敵はやっぱり敵でしかない場合もあります。本書は上下巻に分かれていますが、事件の犯人自体は物語半ばで明らかになります。しかしながら、そこから先も長い物語が描かれているのが本書の特徴でもあります。捕まえるべき真犯人が明らかになっているにもかかわらず手出しすることのできない状態。それはまさに冷戦の構造そのものです。
 ペレストロイカによって旧ソ連は崩壊しましたが、そこに至るまでの共産主義国家としての疲弊や、冷戦下での米ソの関係などを、頭でっかちにならずに考える上でうってつけの作品だと思います。明るく楽しいお話とはお世辞にもいえませんが、あえてオススメしておきます。
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*1:ちなみに『ゴーリキー・パーク』の時代背景は1977年です。