『3月のライオン』と4つの視点

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

 『ユリイカ』2008年6月号は特集として「マンガ批評の新展開」が組まれています。内容は盛りだくさんなのですが、とりあえず『3月のライオン』を批評の対象としている泉信行「キャラたち/キャラクターたち」が気になったので、それだけ真っ先に読んでみました。
 本論稿では*1、漫画表現には4つの視点があるとされてます。すなわち、〈プライヴェート視点〉、〈神の視点〉、〈客観視点〉、〈パブリック視点〉の4つです。詳細については本論稿を実際に読んでいただきたいのですが、簡単にまとめると次のようになりますか。

視点 意義
プライヴェート視点〉 誰か一人のキャラクターが感じている「主観的な印象」で世界を眺めた視点
〈パブリック視点〉 誰にでも共有可能なイメージからの視点
〈客観視点〉 均一に世界の外面だけを映し出すような視点
〈神の視点〉 ありとあらゆるものを見通す全知の視点

 本論稿では、上記4つの視点のうち〈パブリック視点〉を中心とした『3月のライオン』論が語られています。羽海野チカはインタビューで、なぜ「将棋」を題材としたのかと問われて次のように答えています。

「お話をつくる時って、主人公と自分に共通点がないと魂が入らないんですけど、いろいろ調べていくうちに棋士の人たちにものすごくシンクロするものを感じたんですね。そうでない方もいらっしゃいますが……棋士の人たちって、もう将棋しかない。その部分しか特化してない。ほかは何も持ってない。それってマンガ家にも通じることで、頑張れば頑張るほど、ほかのものが持てなくなってしまう」
(『ダ・ヴィンチ』2008年4月号所収のインタビュー「羽海野チカ、新作『3月のライオン』で何に挑むのか」より)

 頑張れば頑張るほど、ほかのものが持てなくなってしまう。持てなくなってしまうもの。切り捨ててしまうもの。持つべきもの。拾うべきもの。そんな緊張関係が描かれているのが〈パブリック視点〉ということになるのだと思います。

「あんまり話さない人なので、夜の川の風景と描いてあげたいなあって」
(上記インタビューより)

 桐山零は無口な主人公です。それだけに、視点によるコミュニケーションがとても重要なものとして機能しているのだと思います。
 また、将棋を題材とすることで必然的に内在してしまうのが〈神の視点〉です。〈神の視点〉が内在するというのも奇妙な話ですが(笑)、将棋について語るときにはよく神様が引き合いに出されます。”神の一手”とか”神が見える”とか”将棋の神様と平手で指せるか”とか、そんな抽象的な話ですが、将棋ファンはそういうのが大好きです(笑)。それは、全能感と無能感でいうところの全能感の象徴でもあるわけで、そういう意味では〈プライヴェート視点〉な神様です。その一方で、「棋は対話なり」といわれるように〈パブリック視点〉であることも確かです。それでいて、その盤面は客観的な情報として捉えることができますし、名勝負は将棋史に刻まれて語り継がれていきます。
 つまり、「将棋」という一点を焦点としてさまざまな視点が生み出されてしまうのです。だからこそ、それぞれの視点から見える世界に不備があってはいけなくて、特に将棋オタなどは〈客観視点〉から見える将棋の内容に注目してはあれこれイチャモンをつけるわけで始末が悪いです(笑)。
 で、将棋が強くなるということは、〈神の視点〉に近づくということです。極端なことを言えば、〈プライヴェート視点〉と〈神の視点〉との同一を図ることが究極の目的といえるでしょう。もちろん将棋限定の話ではあるのですが、将棋の神様からすれば全ての手が正解不正解に厳密に分けられることになります。そのとき、果たして〈パブリック視点〉はどこかへ行ってしまうのか、それとも行かないのか。往復する視点と焦点の緊張関係による物語の奥行きの表現、とでもいうことになるでしょうが、本論稿を読んでそんなことを思ったりしました。

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)



(以下、読む人を選びまくりの法律ネタです。興味のある方だけどうぞ。お題は「漫画における4つの視点と不能犯学説との比較」です。)
 ちなみに、上記4つの視点の分類を見て、法律厨としての私は刑法学における未遂犯と不能犯(=無罪)を区別する犯罪の実行行為を区別する基準を連想しました。ざっくり説明すると*2、犯罪の目的である特定の行為を行ったとしても、その行為の危険性が極端に低くい場合には処罰に値しません。例えば、丑の刻詣りなどは、いくら殺意に溢れていようとも藁人形に五寸釘を何本打ち込もうが人は死んだりしません。なので、殺人罪としては既遂どころか未遂にすらなり得ません。では、道端に転がっている死にたてのホヤホヤの死体に銃弾を発射する行為はどうでしょうか? 同じようでもその場所が死体安置所だったらどうでしょうか? その行為の危険性はどのような基準によって判断されるべきか。それが未遂犯と不能犯の区別の問題です。それを区別する基準*3として、(1)行為者本人(主観的)、(2)一般人(一般的)、(3)科学的一般人(客観的)、(4)科学的知見(純粋客観的)、の4つがあるとされています。
 このうち、(1)行為者本人を基準とする考えは主観を重視し過ぎるために丑の刻詣りにすら実行行為性を認めるような結論が出かねないので支持者はあまりいません。(2)一般人を基準とする考えは、”常識”と置き換えてもあながち的外れではありません。(3)科学的一般人は専門家と置き換えても良いでしょう。(3)は(4)ともに一般人という基準からは外れているのですが、ではどこが違うのかといえば、(3)は行為時の客観的な事情を判断の基礎とすることに主眼を置くのに対し、(4)は行為時のみならず行為後をも含めた裁判時までの客観的な事情をも基礎に置こうとします。行為者から離れた科学的な知見を基準とするのが(4)の考え方です。例えれば、連載時の漫画のコマを客観的にそのまま見るのが(3)で、連載終了後に改めてそのコマを客観的に見直すのが(4)ということになるでしょうか(笑)。
 そんなわけで、漫画の視点と未遂犯・不能犯の区別の基準とを私的に対応させると次のようになります。

漫画の視点 未遂犯・不能犯の基準
プライヴェート視点〉 主観的
〈パブリック視点〉 一般的
〈客観視点〉 客観的
〈神の視点〉 純粋客観的

 こんな無理で無茶なまとめをして何になるのかといえば、単に私にとって分かりやすいというだけですけどね(苦笑)。ただ、こうすると、視点から焦点への興味の対象が移りつつある私自身の認識としても落ち着きが良かったりするのですが、だとしても現時点ではネタ的なものに過ぎないのであしからず。



 最後に、ネタ記事とはいえ誤解されるのも怖いので、未遂犯と不能犯の区別についての考えを整理したものとしてよく挙げられる表を載せときます。あとは各自でお調べ下さいませ(汗)。

  判断資料 基準時 基準
純粋主観説 本人 行為時 本人
抽象的危険説 本人 行為時 一般人
具体的危険説 一般人+本人 行為時 一般人
客観的危険説 客観的事情 行為時 科学的一般人
純粋客観説 客観的事情 事後的 科学的

 もちろん、ネタ記事だからといって間違いなどの指摘等から逃れるつもりは毛頭ありません。何かお気づきの点などございましたら遠慮なくコメントなど下さいませませ。ばしばし修正しますので(笑)。

*1:『漫画をめぐる冒険〔上巻〕』は未入手未読です。申し訳ありません(汗)。

*2:詳しいことを知りたい方は絶対に専門書等に当たって下さい。これから私の書いたことを真に受けて何か問題が発生しても一切責任は取れません。本記事はあくまでもネタ記事なので。

*3:実際には判断資料と基準時と基準の3段階に分ける考え方が一般的です。