『銀河英雄伝説7 怒涛篇』(田中芳樹/創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈7〉怒涛篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈7〉怒涛篇 (創元SF文庫)

 銀河英雄伝説は、ラインハルトが皇帝となり宇宙を手に入れるまでを描いた物語です。しかし、普通の国取り物語のテンプレートに従えばラインハルトが権力者の頂点である皇帝になった時点で物語は終わるはずです。ところが、本シリーズでは半分である5巻でそれを迎えてしまっています。宇宙を手に入れたといっても、名目的には自由惑星同盟は存在しているというのはありますが、それよりなにより、彼のライバルであるヤン・ウェンリーは依然として健在なので、二人の伝説はまだ続くことになります。そのため、覇業を達成した後の残務処理・戦時から平時へとシフトしていく過程が語られながら英雄たちの物語が語られることになります。普通の国取り物語ではあまり語られない要素が戦いと平行して語られているのが本シリーズの面白さのひとつといって良いでしょう。
 乱世において活躍した人間が平和を迎えたときに平穏な生活を手に入れることができるとは限りません。戦時には戦時の、平時には平時の才能が必要とされます。戦時から平時へのシフトには権力構造や人間関係が複雑に絡んだ緊張があります。建国の士が覇業の後に排除されることは歴史を振り返れば決して珍しいことではありません。帝国と同盟とフェザーンの三竦みは帝国の一人勝ちで終わりましたが、内外ともに火種はいまだくすぶっています。それが如実に表れたのがロイエンタールとラング(というかオーベルシュタイン)の間の軋轢です。華々しい艦隊戦の一方でこうした権力闘争も描かれているのが本シリーズが仮想とはいえ歴史物語として広く認知されている所以でしょう。こうした争いは会社内における出世争いにも通じるものがあって、それだけに若者だけでなくより多くの世代に読まれる人気シリーズとして広まっていったのではないかと思います。
 帝国側では内部闘争が生じていますが、対するヤン陣営はそれどころではありません。何しろ、不正規隊になっちゃいましたからね(笑)。民主主義国家としての同盟という拠り所を失ってしまったヤン。それだけに彼がこれまで抱えてきた苦悩はより深いものとなります。不正規隊である以上、何なら帝国に投降しちゃえ、という選択肢には根拠も説得力もこれまで以上にありまくりです。だからこそ、これまで以上に民主主義というものについて考えざるを得ません。果たして民主主義というものに積極的な価値はあるのか? ひょっとしたら専制君主制に対するアンチテーゼとしての価値しかないのではないか? だとしたら、最高の専制君主であるラインハルトに対しては無力で無意味な価値観でしかないのではないか?

 唯一絶対の神に唯一絶対の大義名分をおしつけられるより、群小の人間がそれぞれのせまい愚劣な大義名分をふりかざして傷つけあっているほうが、はるかにました。すべての色を集めれば黒一色に化するだけであり、無秩序な多彩は純一の無彩にまさる。人類社会が単一の政体によって統合される必然性などないのだ。
 ある意味で、このようなヤンの思考は、民主共和政体にたいする造反の要素をふくんでいるといえなくもなかった。民主共和主義者の過半は、自分たちの思想によってこそ宇宙が統一されることを願い、専制政治の消失をのぞんでいるはずであるから。
(本書p137より)

 まったく、専制とは、変革をすすめるにあたって効率的きわまりない体制なのである。民主主義の迂遠さにあきれた民衆は、いつも言うではないか。
「偉大な政治家に強大な権限をあたえて改革を推進させろ!」と。逆説的だが民衆はいつだって専制者をもとめていたのではないか。
(本書p285より)

 20年以上も前に書かれたはずの物語ですが、今の国際情勢にかんがみて思い当たる節がありまくりです(苦笑)。だからこそ、人類の科学技術が銀河の果てまで進出できるようになる頃までには、もう少し何とかしたいものですが(笑)。
 『銀河英雄伝説』というだけあって、本シリーズでは基本的には銀河で英雄的な活躍をする提督や将官たちにスポットが当てられがちです。特に本書では帝国軍の皇帝ラインハルトと同盟軍の老将ビュコックの戦いが一番の見所です。しかしそれは祭祀としての美しさです。双方が戦略的にベストを尽くした結果、戦術的な決着は勝負の前から見えています。それでも、踏まねばならない手順としてランテマリオ会戦は行われます。血の流れる剣舞です。儀式めいたものですが、それでも英雄たちが戦い散ってゆく姿には魅了されるものがあります。
 そうした中で異彩を放っているのがオーベルシュタインです。ラインハルトの影として仕え主君と帝国のために謀略をめぐらす存在。彼について側近のフェルナーは軍務尚書は、あるいは諸将の反感・敵意・憎悪を彼の一身に集中させることで皇帝の盾になっているのかもしれない(本書p308より)と評しています。つまりオーケストラにおける指揮者のようなものですね(笑)。とはいえ、こうした裏方に圧倒的な存在感を持たせている辺りが巧みだと思います。この7巻ではカリスマ性(=自分自身で虚構をつくりあげる資質。by本書p238より)というのもテーマのひとつになっていますが、カリスマ性がまったくないことがある意味カリスマ性になるという逆説的な面白さと魅力がオーベルシュタインにはあります。
 あと、帝国サイドではロイエンタールエルフリーデと関係を持った件、ヤン陣営ではシェーンコップの隠し子であるカリンの件と、双方で色事が問題になっています。こういう話題も英雄たちの人間的な側面として読んでて単純に面白いところではありますが、無視できない側面として、英雄たちの物語を収束させるための次代へ引き継がせる準備段階があることを看過するわけにはいきません。恋愛や結婚に興味を持てないラインハルト。子供を持つことに嫌悪感を抱いているロイエンタール。血筋をもって国家の存続を保証するはずの帝国側にこうした価値観を持った二人がいる一方で、血筋とは関係ない民主主義を標榜するヤン陣営ではヤンは円満な夫婦生活を営んでいますし、隠し子問題も読んでて悲しくも微笑ましいものです*1。こうした捩れた対比もまた面白いです。
 ときにミクロにときにマクロに語られる英雄たちの物語。その視点の奥行きの深さには酩酊しながらも圧倒されます。鷹にも雀にもそれぞれにしか見えない世界があって、読者はその両方を見ることができますし、両者を比較することで読者にしか見えない世界まで見ることができます。英雄たちにも見ることのできない世界が見られる優越感。何と尊くて楽しいことでしょう。まさに読書の醍醐味です。この後どうなるのかは知っていますが、それでも続きがとても楽しみです。



【オマケ】
 本書の解説は久美沙織ですが「女の立場」から銀英伝について語っています。それは別に構わないのですが、しかしながらこんなことが書いてあって困ってしまいます。

 ヤンもラインハルトも、戦争が「人殺し」であること、それも極悪非道な大量殺戮であることぐらい、じゅうじゅう承知している。どっちもけっして、それが「好き」な変態であるわけではない。ただ、やらないわけにはいかないからやる。他に任せられるひとがいないからやる。やるからには、全身全霊をかけてやる。他にどうしようもない場合、ひととして有限なものにできる限りの最良のことをしようと苦闘するのである。
(本書p339より)

とのことですが、これにはものすごく疑問を感じます。少なくともラインハルトは戦闘狂の変態といって間違いないでしょうし、本人だってそれを否定することはないはずです。

「フロイライン、私は戦いたいのだ」
(5巻p103より)

 これがラインハルトの本質ではないでしょうか。こうした傾向は物語の随所で描かれています。続く8巻でも、ある戦いの方針を巡ってラインハルトはミッターマイヤー・ロイエンタールという帝国の双璧と見解を異にしますが、それも「戦いたい」というラインハルトの個性の発露以外の何物でもないはずです。こういう解説を読みますと自分と同じものを読んでいるのか不安になってくるので正直勘弁して欲しいです(笑)。ちなみに、解説で語られている、戦争における「女の立場」というものを考えてみたい方には、スパルタ対ペルシアによるデルモピュライの戦いを描いたスティーヴン・プレスフィールドの『炎の門』がオススメです。入手困難ではありますがとても面白い本なので興味のある方は是非。
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プチ書評 銀英伝とライトノベル

*1:外伝3巻の内容を知ってるからですが。