『決定力を鍛える』(ガルリ・カスパロフ/NHK出版)

決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣

決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣

 本書では、チェスの世界チャンピオンとして偉大な足跡を残したガルリ・カスパロフの成功の秘訣について自らが探求した成果が述べられています。チェスについての本ではありますが棋譜とかは一切出てきません。チェスについてあまり詳しくない人でも読めるように書かれています。本書で述べられているのは、物事を決定する場合における一貫性と適応性を共存させることの重要性です。
 私自身、能力的に、 将棋>>>>(越えられない壁)>>>>囲碁>チェス というていたらくのど素人です。ただ、チェスについての描写はあくまでも抽象的なものなので、具象化の段階で将棋に転化することで、かなりの部分を理解することができたのではないかと思っています。チェスと将棋の違いとしてよく語られるのは、取った駒を使えるか否かという点にありますが、そのレベルまでの踏み込んだ分析はないので安心です。ただ、本書を読んで私が感じたチェスと将棋の最大の違いは、引き分けの多さにあります。チェスは引き分けのとても多いゲームです。何でも、グランドマスターレベルでは、白(先手)の勝利が29%、黒(後手)の勝利が18%、残りの53%が引き分けなのだそうです(本書p135より)。対して、将棋にも千日手持将棋といった引き分けという決着がなくはないですが、そんなの統計として数字化するほどの意味がないくらいレアなケースです(ちなみに、プロの将棋だと先手番の勝率はだいたい54〜52%の間で推移しています)。これはステイルメイト(参考:Wikipedia)の有無に起因するところが大きいと思いますが*1、つまりチェスでは実力が拮抗したもの同士の対局だと引き分けが当たり前だということを意味することになります。そのため、相手との決着をつけるためには将棋よりも数多くの対局を行なうことを要し、必然的に対戦相手に向き合う機会もより多くなるということだと思います。あと、チェスの世界戦でのセコンドなどのチームの存在というのも個と個の戦いが基本の将棋界と比べてとても面白く感じました。
渡辺明竜王『頭脳勝負―将棋の世界』と併読するとより理解が深まると思います。)
 本書は、チェスの本です。そこでは戦略と戦術の違い、時間切迫*2における直観の重要性、読みの正体、対戦相手との心理的駆け引きなどなど。チェスファンはもとより将棋ファンでも間違いなく楽しめるものばかりです。いくつか個人的に気に入った文章を挙げてみます。

 ”なぜ?”こそは、職務を果たすだけの者と先見性のある者を、単なる策士と偉大な戦略家を分かつ問いである。自分の戦略を理解し、発展させ、そのとおりに実行したいなら、たえずこの問いをいだかなければならない。
(本書p57〜58より)

 チェスでは、手を指すことが義務である。どう指すか決められなくても、順番を飛ばすという選択肢はない。戦略的展望のないプレーヤーにはこの義務が重荷となる。差し迫った危機がないときにプランを立てられない者は、みずから危機を引き起こそうとする可能性が高く、自分の陣形を損なうのが関の山だ。
(本書p66より)

 パターンと論理への依存度が高いゲームにあって、先入観をいだかずにいることは困難を極める。
(本書p105より)

 ”やや優勢”を決定的な優勢に転換するのは心理的にむずかしい。ひとつにはいわゆる”自分の局面に惚れこむ”傾向のためである。有利であることに満足するあまり、それを失うリスクを冒そうとしない。少しずつ駒を動かし、意義のあることは何もせずに局面上の優位の維持に努める。相手が強敵である場合、これは主導権の喪失につながりやすい。本物のリスクを冒さずして、進歩することはほぼ不可能である。
(本書p258より)

 駒を動かすことが杖となり、それを支えとして精神のかわりに目を使うようになることがある。盤を前に座るとき、われわれに選択肢はない。
(本書p353より)

 また、こうした事柄を説明するために、本書ではビジネスや歴史上の出来事といった例え話がふんだんに用いられています。最近読んだ将棋の本の中だと、谷川浩司九段の『構想力』が近しいでしょうか。ただ、谷川浩司は確かに偉大な棋士の一人ではありますが、あくまでも棋士なので、そうした中でビジネス訓などが書かれていてもいまいちピンとこない場合も正直あります。ところがカスパロフは2005年に公式戦を引退して政治家に転身し(反体制派「もう一つのロシア」を代表するロシアの政治家として活動中。この前も逮捕・拘束されてました)、そうした立場から本書を執筆しています。したがいまして、同じような例えも説得力が自ずと違ってきます。また、そこで用いられている例えもボーイング社やマイクロソフトにグーグル、さらにはナポレオンやクリントン大統領、プーチン大統領などといったものが使われています。チェスにもロシアにも詳しくない私でも知っているくらいに具体的でどデカイものばかりです。並じゃなかなかできない表現ですしハッタリが利いててとても楽しいです。もっとも、彼自身、

 私たちの意思決定スタイルは人生のある分野にはふさわしくても、別の分野ではそうではないのかもしれない。チェス盤を前にした私のスタイルはつねに攻撃的でダイナミックだったが、そのままのやり方でチェス界の政治やビジネスに手を出しても、ほとんど成果は挙がらなかったといわざるをえない。
(本書p231より)

と述べていますから過信は禁物ですけどね。逆に言えば、それでも彼自身は通用すると思っていることが本書では書かれている、ということはいえると思います。
 カスパロフがチェスの歴史に名を残す偉大なチャンピオンの一人であること、現ロシアの政権下にあって野党を代表する政治家の一人であることくらいは知っています。知っていますが、それでも私がカスパロフの名前を聞いて真っ先に思い浮かべてしまうのは、「ディープ・ブルーに負けたカスパロフ」(参考:Wikipedia)というイメージです(いろんな方面にゴメンなさい)。それは、私自身が将棋ファンとして将棋とコンピュータの関係とその将来とがとても気になっているからです。
 将棋のプロ棋士である片上大輔五段は、いずれは将棋の世界でも人間(この場合の人間とはトッププロのことを指します)がコンピュータに負ける時代が来ることを予測した上での危機感と展望とを考察しています。
【関連】daichan's opinion:「その後の世界」を展望してみる
 こうした視点に立ったとき、カスパロフはまさにチェス界においての「その後の世界」を生きている人間です。そこで語られている言葉はとても示唆に富んだものですし参考になります。私が本書を読んで思ったのは、仮にコンピュータが将棋で人間を上回る時代がきたとしても、棋士という存在が否定されることはないだろうということです。確かにカスパロフはコンピュータに負けたかもしれません。しかしながら、コンピュータにはチェスについてこんなに面白い本・文章を書くことなど到底できやしないでしょう。本書では、まさにプロの思考の言語化というものが図られています。そして、そこで語られている言葉はとても力を持っています。興味深い内容ですし、読んでて引き付けられる文章ばかりです。
 ちなにに、本書ではコンピュータとチェスの関係についてもかなり語られています。ディープ・ブルー戦については敗れた当事者ということもあってかさらっと触れられているだけにとどまっていますが、コンピュータの黎明期とチェスとの深いつながり、彼自身がチェスプログラムの初期段階からの関わりを持っていたこと、そして、コンピュータに敗れた後のアドバンスドチェス*3という試みについてなどなど。チェスにおける人間とコンピュータとの関係は、紆余曲折はあったものの、人間がコンピュータを引き上げ、そしてコンピュータが人間を引き上げるといった相互作用の関係が成り立っています。そうした関係は将棋界においても相通じるものがあるに違いありません。
(なお、将棋におけるコンピュータとトッププロの対局について興味のある方には、保木邦仁渡辺明『ボナンザVS勝負脳』がオススメです。)
 対局には必ず相手が必要です。カスパロフが自身の勝負を語るときには、そのときの対戦相手についても必ず語られます。チェスはゲームであり研究であり芸術でもあります。そしてまた勝負でもあります。そうした様々な側面があるなかで、勝利は必ずしも本質的で重要なものだとは限りません。しかし、人知を超えた閃き・芸術的な棋譜というものは勝負のなかでこそ生まれます。独りよがりな考え・自己満足な構想は対戦相手によって叩き潰され、敗北を喫することになります。

 二位に終わることは間違いなく三位よりいいし、最下位になるよりずっといい。勝利こそ”すべて”といった決まり文句は、勝利など重要ではないという言葉と同じく陳腐である。肝心なのは、攻撃性をコントロールして自分の成績を向上させる独自のシステムを築くことだ。
(本書p249より) 

 勝敗を競い合うことの素晴らしさを本書は教えてくれます。
 偉大なチャンピオンとして名を残してきたカスパロフが自らのチェスについて語ることは、世界のチェス史について語ることでもあります。実際、本書では数々の優れたチェスプレーヤーの名前が挙げられています。また、歴史について彼の考えも述べられています。彼によれば、歴史とは、つぎつぎに訪れる危機的状況の物語なのである。危機の簡潔な定義として私が気に入っているのは、”疑問に答えることができない時”というものだ。(本書p368より)ということになります。彼はそうした危機に対しての対処方法をチェスによって学びチェスに適用することで世界チャンピオンとして君臨することができました。そうして身につけた思考技術と行動方針を、今度はロシアの政界において活用しようとしています。プーチン政権の独裁化を危機として認識し、それを打破して民主主義を実現させるために。カスパロフは、本書の狙いを探求者仲間を励ますことにある(本書p382)と述べています。それは、自らの戦いの困難さを自覚する彼が自らを励ますための言葉であるようにも読めます。そんな風に思ってしまうくらい、本書で語られている言葉には他人事ではない説得力と力強さを感じます。チェスの本ではありますが、広くオススメしたい一冊です。

*1:コメント欄でご指摘いただきました。チェスにおける引き分けは、ステイルメイトによる引き分けよりも、片方がドローを申し出て相手がそれを承諾することによる「ドローの合意」による引き分けが大半を占めているとのことです。将棋でも持将棋の成立には対局者の合意が重要視されるケースがありますが、それは勝負としては泥沼の状況です。将棋や囲碁に馴染んでいる身としては不思議なルールに感じます。

*2:チェス用語でZeitnot(ツァイトノート)とも。ちなみに、Zeitnotというチェス漫画がフランスで話題になっているらしいので興味のある方は私のために翻訳していただけると大変嬉しいです(笑)。参考:http://www.shoguncity.com/article19.html

*3:人間とコンピュータとの協働を認めた対局のこと。