『ユダヤ警官同盟』(マイケル・シェイボン/新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

 本書は上巻のオビによれば、ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞というSFの主要三賞を制覇した、との触れ込みで売られています。なので、SF的な作品としての期待感から本書を手に取る方も多数おられるかと思います。かくいう私もそうだったわけですが(笑)、しかし、SFであることを過度に期待してしまうとしょんぼりしちゃうことになりかねません。本書の舞台は2007年ですが、設定が現実の世界とは少し異なります。イスラエルが建国されず、アラスカ州にシトカ特別区という流浪のユダヤ人のための区が設置されて、しかしながらその返還が2ヶ月後に迫っています。そんな歴史が改変された世界でのお話です。なので、例えばP・K・ディックの『高い城の男』などと同じく歴史改変ものというSFではあるのですが、正直SF度はそんなに高くありません。下巻の訳者あとがきでも述べられているとおり、ジャンルを横断したスリップ・ストリーム文学、もしくは思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)と捉えた方が無難でしょう。
 それでもなお本書をジャンル付けするのであれば、まずはハードボイルド風のミステリとしてオススメしておくのが本道だと思います。アメリカへの返還が2ヵ月後に迫っているシトカ特別区で殺人課の刑事を務めているのが本書の主人公マイヤー・ランツマンです。両親や妹はすでに他界して妻とは離婚して、さらには特別区アメリカに返還されるということで警官としての仕事も保証されず、さらには故郷すら喪失することになるというまさにアイデンティティの危機に直面しているアル中でワーカー・ホリックの中年刑事。そんな彼が住むホテルで発生した殺人事件。同じホテルに住んでいたといっても、彼と被害者との間にはなんのつながりもありません。ただ、被害者の傍らにあったチェス盤が、彼の興味を引きつけることになります。なぜならチェスは彼の人生にとても関わりの深いものだったから。父との思い出・少年時代の思い出だったから。
 特別区の返還が2ヶ月後に迫っているため、シトカの警察にはアメリカからの圧力がかかっています。いわく、面倒な事件をアメリカの警察に引き継がせることがないようにと。そのため、上司となった元妻からは事件を捜査しないようにいわれますが、それでも彼は捜査します。被害者の身元を探るうちにユダヤ社会、ユダヤ教の厄介な部分にも足を踏み入れなくてはならなくなって、彼は様々な方面から圧力を受けることになります。もともと孤独な彼が警察官としてもさらに孤独を抱えて醜態を晒して、それでも事件を追い求めるうちに周囲との絆を回復しアイデンティティの拠り所を見つけ出す。本書はそんなお話です。犯人当てのミステリとしてはお世辞にも良くできているとはいえませんが、物語によって語られるランツマンの姿にはハードボイルドとしての読み応え十分です。
 本書において扱われているユダヤ人、もしくはユダヤ教のテーマについては、あいにく私はWikipediaに載っている程度の知識しか持ち合わせてません(苦笑)。なので正直分からないことだらけでしたが、歴史改変ものとすることによって、現代の政治的な主義主張から距離を置いてそうしたテーマについて語ることには成功していると思います。
 SFとしてもミステリとしても哲学小説としてもオススメの作品です。
 ちなみに本音を言いますと、私が本書で一番強調したいのはチェス小説としての側面です。
(以下、本書のチェス小説としての側面についてひっそりと。)
 本書ではサヴィエリ・タルタコーワの”盤上ではあらゆる悪手が指されるのを待っている”という名言が引用されている箇所がありますが(上巻p44より)、この言葉からは羽生善治が将棋について語った次のような考え方を想起させられます。

――最近の羽生語録では、「将棋の手はほどんとが悪手である」という言葉が突出して目立ちます。そう気づいたのはいつごろですか。
羽生 正確には覚えていませんが、すくなくともプロになってからです。
――ここ10年くらいですか?
羽生 いやいや、もっと前です。
――昔から思っていて、そろそろ言ってもいいかなと思ったのが数年前、ということになりますか?
羽生 いや、みんなそう思っていると私は思っていましたけど。
――だれも聞いたことないから、みんなビックリしたんですよ。
羽生 あ、そうですか(笑)。でも、プロの人はなんとなく実感していると思いますよ。
――そうは思えません。プラスの手はある、それを実現すべきだ、という発想でやってきたはずで…。
羽生 いやいや。簡単な話なんですよ。一手ずつ駒を動かしていきますね。最初はなにもそろっていない形をしています。でも40手も指せば、王様もしっかり囲えるし、攻めの好形もできます。それはなにをしているかといえば、一番いい位置に駒を持っていこうとしているわけです。矢倉なら玉を8八に、金なら7八に持ってくる。それぐらい経つと、駒が全部いい位置に来ています。するとルール上は手が増えますけど、実際にはやる手が少なくなっています。玉は8八がいいし、7八の金を動かす手は全部悪手です。だんだん手がなくなっているでしょう。
 適当に駒を進めて、なんの目的もなくただ動かしていれば、いくらでもいい手はありますよ。直していけばいいわけですから。でも、最初からちゃんと動かしていけば、だんだん選択肢が少なくなってきます。
(『将棋世界』2006年8月号所収「羽生善治、将棋の《今》を語る」p16〜17より)

 チェス用語におけるツークツワンク(ツークツワンク - Wikipedia)と類似の概念ともいえますが、それは単なる局面の問題ではなく本質に近い問題だということなのでしょう。
 タルタコーワの言葉の意味は、おそらくは盤上で最善手を指すことの困難について語ったのであって、羽生のこのような考え方とは異なるものであったと思います。しかし、ユダヤ人の問題がテーマとなっている本書においてタルタコーワの言葉の意味を考えると、どうしても「将棋の手はほとんどが悪手である」という境地に達せざるを得ません。それは、現実のパレスチナ問題が「やられたらやり返す」の報復の連鎖の袋小路に入り込んでしまっているように思えてならないからです。
 本書ではことあるごとにチェスについて語られ、ときにはチェスによって人生が語られます。それは、チェスが暴力を伴わない闘争だからです。チェスと人生とを重ね合わせるとき、そこでの人間はプレイヤーであることもあれば駒であることもあるでしょう。物語との関係でいえば、プレイヤーであるときは物語を「語る者」である一方で、駒であるときには物語によって「語られる者」ということになります。ランツマンは、語りたいのでしょうか。それとも語られたいのでしょうか。
 チェスというゲームについてのこうした理解が根底にないと、結末において明らかになるチェス盤について真実の意外性を感得するのは難しいのではないかと思います。表紙のカバー絵にチェスの駒が描かれているのは伊達ではありません(笑)。なので、チェスに興味のある方には是非一読をオススメしたいです。

将棋世界 2006年 08月号 [雑誌]

将棋世界 2006年 08月号 [雑誌]