『名人に香車を引いた男』(升田幸三/中公文庫)

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

 「新手一生」を掲げ、大山升田の一時代を築いた伝説の棋士升田幸三の半生が綴られた自伝です。二こ神さんが尊敬する棋士でもありますし、今のプロ棋士でもファンは多いことで知られています(参考:渡辺明ブログ 昔の観戦記)。
 これがまず読みものとしてとても面白いのです。「名人に香車を引いて勝つ」と大志を抱いていた少年時代。木見門下として住み込みの修行時代。升田幸三が表舞台に上がる前の話ですが、これだけでもとても面白いのが驚きです。いかに升田と言えども最初は弱かったわけですが、そこはやはり天分の持ち主ですからめきめきと実力をつけていきます。そうすると、今まで升田のことを見下していた兄弟子たちもその腕前に苦しめられることになります。

 だいたい同門の場合は、兄弟子は弟弟子に対して分が悪いんです。弟弟子は兄弟子を目標に。追いつこう追い抜こうと、血のにじむような苦心をし、努力をする。ところが、兄弟子の方は。弱いうちから教えてやっとるから眼中にない。実力が接近してきても、ついつい過小に評価する。で、足もとをさらわれる。これはいかんと思い直し、気を引き締めようとしても、他人と指すようには、闘志が純粋には燃えてこない。
(本書p114より)

 升田は当時の兄弟子と自分との関係をこのように振り返っています。そして、こうした関係が後に大山康晴と自分との関係に皮肉にも跳ね返ってくることも。
 本書の魅力は、昭和を代表する大棋士としてのエピソードの面白さだけでなく、升田の洒脱なセンスと、謙虚でいながらも遠慮のない軽妙な語り口にもあります。
 これは終戦後、升田がGHQに呼び出されたときの話ですが、

「われわれのたしなむチェスと違って、日本の将棋は、取った相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想である。しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
(本書p225〜226より)

 また、読売新聞主催の第二回全日本選手権戦(後の九段戦十段戦にして竜王戦)の対木村名人戦の局後の話ですが、

「名人がなんだ。名人なんてゴミみたいなもんだ」
「名人がゴミなら君はなんだ」
「私ですか、さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですね」
(本書p271より)

 あーいえばこーいう、というたぐいの話ではありますが、ホントに機転の利く人だったんたなぁ、というのが分かりますし、こうした人柄だからこそ「新手一生」と呼ばれるような新手・新定跡を数多く生み出すことができたのでしょう。
 棋士としての実績となると、私のようなヘボアマがどうこう言えるようなものではありません。升田式と呼ばれる石田流の再興もそうですが、本書に収録されている中だとやはり駅馬車定跡が一番だと思います。今並べてもいかにも軽快な順でとても爽快です。
 高野山の決戦(「錯覚いけない。よく見るよろし」)、陣屋事件、そして、第五期王将戦において名人相手に香車を引いて勝った一局と、今も語り継がれる棋史に残る重大な事件を知るための読みものとしてもまた面白いです。もっとも、本書はあくまでも自伝である以上、当事者の一方の視点で語られることは否めません(それが本書の醍醐味でもあります)。事件を客観的に把握するためには他の資料にも触れる必要はあるでしょうが、その出来事における升田幸三の心情を知る上では本書以上のものはないでしょう。
 本書を読むと、私が生まれる以前の将棋界と新聞社との関係の深さというのを改めて実感することができます。2006年に名人戦の移管が問題になりました(結果、毎日の単独主催だったものが現在では毎日と朝日の共催になっています)。当事者である棋士たちにしてみれば重大な問題なのは分かりますが、私たちファンからすれば棋戦の廃止ならともかく、そうでなければどっちの主催になったとしても大した問題ではないと個人的には思っていました。ところがこの問題はネット上の将棋ファンの間でも大注目・大騒動の事件となります。いや、注目なのは分かるんですが、何もそんなに騒がなくてもいいじゃん、と辟易しながら眺めてたのですが、本書を読んで昔からのいきさつ・空気を多少ながら実感すると、賛成派と反対派の間で激論が起こるのも分かるような気がします。ちなみに、名人戦について以下のような構想を述べています。

共同通信と契約し、そこを通じて各紙に棋譜を載せる」
 これが私の構想だった。名人戦は、一社が独占すべきもんじゃない。各紙が公平に分かつべきものだと考えたんですが、いまにして思えば世間知らずの書生論でね。独占できるから新聞社は高いゼニを払うんで、どこにでも出るんなら、大金を投じる意味はありゃしません。
(本書p259より)

 升田自身が「書生論」として切り捨てている構想ではありますが、それがどういうわけか今の名人戦は共催になってしまってます。歴史って面白いですね(笑)。七大タイトルの中で、何故「名人」が特に権威のあるタイトルとして認知されているのか。将棋界における「名人」の存在意義を語る上でも本書は欠かせない一冊だと思います。
(ちなみに、共同通信社が主催のタイトル戦として現在は棋王戦が設けられています。)
 そうした事件とは別に、升田幸三の一棋士としての一面もまた本書から窺い知ることができます。昔と比べると今の将棋は研究の発表会みたいだと揶揄されることがあります。確かに今の将棋にそうした一面があることは否定できません。本書を読むと、「強い方が勝つ」といわんばかりの姿勢で勝負に向かっている姿がとても印象的です。攻めか受けかといった棋風くらいは気にしているようですが、相手の得意戦型がどうだとかそういうのはほとんど語られません(自戦記は別ですが)。ましてや、先手だったら有利で後手だったら不利だとかといった現代将棋における大事な要素がすっぽり抜け落ちています(笑)。それどころか、居飛車振り飛車かということすらも特に気にはかけていないようです。そもそも、本書で紹介されている棋譜を見れば一目瞭然なのですが、石田流三間飛車を指したかと思えば矢倉を指したり角換わりを指したりと、将棋そのものへの愛着・執着は強かったようですが、戦型・戦法については何を指しても大丈夫というような余裕を感じます。そこが恐ろしいです。
 じゃあ研究などまったくしてなかったのかといえば、そうでもないみたいです。第二次世界大戦で戦地に狩り出されたときに、名人と指して負けた将棋を徹底的に分析していたというのは有名ですし、石田流にこだわった理由にしても、大山の対石田の研究を意識した側面があったみたいです。ですから、今みたいな研究会、もしくは昔のような一門による秘手の発見、といったものはなかったかも知れませんが、升田の頭の中では常に将棋のことがあったんじゃないかと思います。
 本書は単なる自伝ではなくて、升田の代表的な棋譜と自戦の解説がついています。これがまた滅法面白いのです。いい手を指したと思ったときにはそのよさを嬉しそうに読者に教えてくれますし、苦しいと思えば苦しいとあっさりと認めてそれ以降の指し手・心境を解説してくれます。そうして耐えに耐えた末に逆転したときの嬉しそうなことといったらありません(笑)。相手の指し手だけでなく心情をも読み取り、それを思いやるところもあります。そうしたところに勝負師としての升田幸三の懐の深さを感じます。
 私のような昔を知らない者にとっては勉強になることばかりでしたが、そうでなくても将棋ファンであれば老若男女を問わずオススメしたい一冊です。