将棋とチェス、あるいは戦術と戦略と手術と医局について

医龍 18 (ビッグコミックス)

医龍 18 (ビッグコミックス)

 『医龍―Team Medical Dragon』18巻では、医局の中で幾多の政局を葬ってきた野口が、自らの生き様を将棋に例えると共に、3人の教授選の候補者たちを棋士に見立ています。そして、その中の1人、国立笙一郎については次のように評価しています。

日本の医療を否定し、アメリカへ渡り成功した。
その無秩序で無責任な生き方を、僕の医局にお仕着せようとしている。
昨日までチェスを打っていた君に、将棋が指せるのかい?
日本人というものは、コマの少ないチェスのような単純な人種ではないんだよ。
根回し、便宜、敵だった駒も手の内で飼い殺しておいていつか自分のために使う、そういう手練手管が必要なんだ。
(『医龍 18巻』p188〜189より)

(以下、長々と。)
 将棋とチェスの違いとはいったい何でしょうか? ルールが違う駒の数と動きが違う盤上の升目の数が違うキャスリングがあるステイルメイトがある、と言ってしまえばそれまでですが(笑)、その違いは、ときに文化の違い・考え方の違いといったの文脈の中で語られることがあります。
 例えば、大棋士升田幸三終戦後、GHQに召喚されたときの話として次のようなものがあります。

「われわれのたしなむチェスと違って、日本の将棋は、取った相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想である。しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
『名人に香車を引いた男』(升田幸三/中公文庫)p225〜226より)

 『対局する言葉 羽生+ジョイス』(羽生善治柳瀬尚紀河出文庫)では、J・ジョイス『フィネガンス・ウェイク』を引き合いに出しながら棋士羽生善治の思考回路を言語化しようという試みがなされているのですが、その中でも将棋とチェスの違いについて触れられている箇所があります。

羽生――チェスと将棋の決定的な違いは、チェスは将棋と比べて盤がより狭くて、駒がより強いんですよ。すべての駒が将棋より強いんです。将棋以上に、より狭い空間で、ものすごい力の強い駒同士が戦い合う、という違いがひとつあります。あと、チェスはどれだけ自分のエリアを取るかというのがものすごく大きい、という印象をもちますね。
(中略)
柳瀬――『フィネガンス・ウェイク』が向こうの作品なのにチェスには似ていなくて、将棋に似ているという文章を書いたことがあるんですけど、増殖していくんですよね、言葉が。将棋の場合はどうでしょうか。その辺までは多少当たっていますか。増殖ではないですか。
羽生――可能性だけいえば、最初からより広がっていきます。だから増殖とはいえるでしょう。ただ、自分が指し手を選ぶときは最初の方が難しいですね。
チェスの場合はどうなのかは私は分からないんですけども、こういうことは言えると思うんですよ。将棋は、始まってからだんだんだんだん可能性が、指し手の可能性だけですけど、純粋な可能性だけはどんどん広がっていく。チェスの場合は最後……。
(『対局する言葉 羽生+ジョイス』p66〜67より)

 『文学界』(文藝春秋)2009年2月号には小川洋子若島正の対談「チェスと文学」が収録されていますが、そこでもチェスと将棋の比較がなされています。

 若島 チェスは人間的なメタファーで語られることが非常に多いのです。チェスに勝つことは人生に勝つことである、という具合に。しかし、ナボコフはあの対局の場面で純粋な思考と思考の闘い、抽象的な力のせめぎ合いとして書いている。私の知っている限り、それをやったのはナボコフだけです。
 小川 ああ成程。思考と思考、もっと言えば魂と魂の触れ合いですね。ただ、将棋よりもチェスの方が、攻撃的で動きが大きく、より闘いに近いので、現実の生身の人間の人生にたとえられることが多くなるのでしょうか。
 若島 チェスはどんどんスポーツに近くなってきていることは確かです。例えば、ブリッツ(早指し)といって、制限時間内に指さないと負けになる、というルールがあるんです。制限時間に近づくと、選手たちはものすごいスピードで駒を動かすんです。それはもう、本当にスポーツの世界ですよ。
 小川 思考と思考の触れ合いなんて言っている場合じゃないんですね(笑)。将棋は静かですよね。
 若島 時間切れ負けもありますが、だんだんと盛り上がっていく感じはありますね。チェスは逆に、取った駒が使えませんから、だんだんと盤上が寂しくなっていく感じです。
 小川 その寂しくなっていく感じがまた、味わい深く、物語的なんですよね。

 このように、日米の文化の差を表したり、棋士の思考の中身を分析したり、あるいは文学作品の理解のための比喩として将棋とチェスの違いが用いられているわけですが、こうした比較から何が生まれるのかといえば、基本的に比較するのって楽しいですよね(笑)。ただそれだけで意味など必要なかったりもしますが、違いを見い出すということは、共通点もまた見い出しているということでもあります。そうすることで、物事の本質の追求に一歩でも近づくことを期待すると同時に、異なる点についてはそれをはっきりと自覚することで自分自身の持っている考え方に修正を施し応用していくことが期待できます。
 実際、将棋にはそれなりの自信がある一方でチェスはサッパリな私のような人間がチェス小説を読む場合には、作中のチェスを将棋に置き換えて読みながらも上記のような違いは違いとして意識しながら読むようにしていますし、そうすることで理解できることというのは確実にあると思います。
 そんなわけで、『医龍』における上記のような将棋に例えた医局の世界を読んでて思い浮かんだのが、手術と医局の関係と、『銀河英雄伝説』(田中芳樹/創元SF文庫)などで描かれているような戦術と戦略の関係の類似点です。
 『医龍』では、超人的な技量を持つ朝田という外科医(『三国志』でいえば呂布みたいな圧倒的な腕前です。)がいますが、その朝田にしても医局という盤面で見れば一枚の駒でしかありません(もっとも、代替の利かない優秀な駒ではありますが)。どんなに優れた外科医がいても、その能力を最大限に発揮できるだけの駒の配置や連携といった陣形が整備されていないと宝の持ち腐れです。朝田一人が活躍しても手術そのものが失敗しては何の意味もありません。
 『ブラック・ジャック』や『スーパードクターK』などのかつての医療漫画は、一人の天才的な医者を通じて医療というものを描いてきました。現代の医療漫画はそうした個人のみならず医局全体を描くことが主流となっています。医局を将棋の盤面に例えた描写はそのことを端的に表したものだといえるでしょう。
 そして、そうした手術と医局の関係は、戦術と戦略の関係と比較するとより分かりやすくなると思います。『銀河英雄伝説』は戦術と戦略の概念を始めてスペースオペラに持ち込んだ作品として知られていますが、例えばそれは登山に例えられて次のように説明されています。

「登るべき山をさだめるのが政治だ。どのようなルートを使って登るかをさだめ、準備をするのが戦略だ。そして、与えられたルートを効率よく登るのが戦術の仕事だ……」
(『銀河英雄伝説3巻』(田中芳樹/創元SF文庫)p277より)

 この場合、登るべき山=戦争です。そのための作戦=戦略で、戦闘=戦術ということになります。

 ラインハルトはフェザーン回廊通過という方法によって戦術レベルにおいて難攻不落であったイゼルローン要塞を無力化してしまったのであり、ラインハルトが単純な軍人ではありえないゆえんがそこにこそあるのだ。だが、”勝利は戦闘の結果”という観念しか所有しえないレンネンカンプには、革命的なまでの状況の変化が、いまひとつ理解しえないのである。
 なるほど、”金髪の孺子”が宇宙を支配できる道理だ……ロイエンタールは皮肉に首肯した。戦場の勇者は多いが、戦争それじたいをデザインしうる戦略構想家の、なんと希少なことであろう。
(『銀河英雄伝説5巻』(田中芳樹/創元SF文庫)p60より)

 『医龍』では、教授選の候補者たちによる手術プランのプレゼンが選挙戦での重要な争点となってきます。そこでは手術の技術ではなく手術をデザインする技術が問われています。こうした観点から、手術と医局の関係を戦術と戦略になぞらえて考えるのも面白いと思います。

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

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対局する言葉―羽生+ジョイス (河出文庫)

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文学界 2009年 02月号 [雑誌]

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