『背の眼 上/下』(道尾秀介/幻冬舎文庫)

背の眼〈上〉 (幻冬舎文庫)

背の眼〈上〉 (幻冬舎文庫)

背の眼〈下〉 (幻冬舎文庫)

背の眼〈下〉 (幻冬舎文庫)

 ミステリ界期待の新鋭(と言いますか、実績的に”新鋭”という表現はもはや不適当な気もします)として知られる道尾秀介のデビュー作の文庫化です。白状しますと、私、本書が道尾秀介のファースト・コンタクトです(ごめんなさいごめんなさい)。ですから、どんな凄い作家なのかとワクテカしながら読んだのですが、期待はずれというわけではないのですけど、期待違いというのが正直なところです(期待の仕方が悪かった、ということでしょう)。
 巻末の解説などでも言われているように、序盤は現代版京極堂(妖怪)シリーズとでもいうべき滑り出しをみせます。もっとも、京極堂シリーズほど濃密な描写ではないですし、衒学趣味もほとんどないので、さらっと読むことができます(物足りないといえば物足りないのですが、だからと言ってあんなに重くても困りますから、これはこれとしてありでしょう)。霊の囁き・心霊写真といった現象を前にして、本作の探偵役である真備庄介は、霊と言われる存在を5つのカテゴリーに分類して、本作のワトソン役である道尾秀介に説明します。

(1)意図的に生み出された霊(霊という存在に先んじて、まず何か具体的な不可解な現象があり、その現象を説明するための手段として例が持ち出される場合)
(2)実体に先んじて情報があるために生み出された霊(自分の持っている情報を怖れるあまり自ら生み出す偽薬(プラシーボ)みたいなもの)
(3)霊の霊(ちょっとした偶然によって生まれ、ただただ体験者の心の中にのみ残る具体性のない不可解な存在)
(4)精神病理としての憑依現象における霊(対人関係における自己の葛藤を処理する手段としての精神病理の一つ)
(5)本物の霊
(本書上巻p121以下参照)

 こんな感じで、「あるかないかは分からない」という中立的な立場をとりつつも、合理的・分析的に霊という存在について説明されますから、やはり京極堂シリーズと趣向を同じくする現代版憑き物落とし、のようなお話なのかと思ってました。そんな予断を抱きつつ読み進めていきましたら、何だか雲行きが怪しくなっていきます。心霊写真が本物っぽかったり、一般人だと思っていたアシスタントの女性にちょっとした読心能力があったり、霊の存在を感知できる少年が登場したり。本格ミステリ大賞受賞作家という肩書きから私が(勝手に)抱いていたイメージとは随分かけ離れた展開を見せます。
 私は本作を、作中で発生している連続失踪・猟奇殺人事件についての犯人当ての興味としてのフーダニット(あるいは動機を問題にするホワイダニット)だと思って読み始めました。ところが、これだけの超常現象が普通に存在していることが明らかになりますと、一般的な常識を基準にして読みを続けるわけにはいきません。非常識な事情を基礎的な条件として考慮しなければなりません。つまり、いわゆるSFミステリ(参考:プチ書評 ランドル・ギャレット『魔術師を探せ!』)として読む必要があるのです。そうしますと、本書のミステリ的な評価・読み方も変化せざるを得ません。主としてフーダニット、あるいはホワイダニットとして途中まで読んできましたが、超常現象の可能性を提示された後では、いったいそこで何が起きているのかというホワットダニットこそが一番のメインテーマとなるのです。ただ、いわゆるSFミステリと呼ばれる作品群の多くは、物語の前半部分で「何が起こり得て何が起こり得ないのか?」という境界の決定が行われるものがほとんどです。そうしないと推理による仮説の構築が困難だからです。ところが、本書ではそのあたりの作業が割りと曖昧なまま流されていきます。ですから、再読したときに感心する部分というのは多々あるのですが、初読時における推理の楽しみ・カタルシスというのは薄味でした。ただ、本作が第5回ホラーサスペンス大賞への応募作(特別賞を受賞)であることを考えますと、そこで要求されているものについて、これ以上ないほどにそつなく対応して書き上げたものであると評価することはできます。そういう意味での作者の技巧というものは感じます。
 文庫にして上下巻とボリュームはありますが、文章自体はとても読みやすいものでしたのであっという間に読み終わりましたし、つまらなかったということはありません。どっちなのかハッキリしろと言われれば、面白かったと言ってよいでしょう。ただ、厚さに見合った読後感があったのかと訊かれれば、それは微妙だというのが正直な感想です。世評からして本作が道尾秀介の本領が発揮された作品だとは考えられないので、次の作品には虚心坦懐で挑みたいと思います。
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