『楽園の知恵』(牧野修/ハヤカワ文庫)

 筒井好きは必読ということで全力で釣られてみたのですが、とても面白かったです。
 1985年〜2005年までに発表された13の短編が、それらを集めて本として編む際に、『病室にて』(単行本版には未収録)と『付記・ロマンス法について』で挟み込まれることで、何となく一冊の本としての雰囲気めいたものが感じられる仕上がりになっています。
 まずは〈病室にて〉。激しい感情の起伏が忌避される世界にあって、それでもなお小説を書こうとする女性作家の心理。この作品によって多くの読者の感情はフラットにさせられるでしょうが、それはジェットコースターが急降下する前のなだらかな登りと同じようなものです。この後、牧野修に好き勝手に翻弄される気分が味わえるので最高です(笑)。
 また、この短編が頭にあることで、これに続く作品がこの女性が書いたものであるかのような印象を読者は持つことでしょう(私がそうでした。もっとも、そんな保証はどこにもないですが)。その中には、頭がいかれてるとしか思えない幻想的という表現すら生温いかっ飛んだイメージが売りのものがあるのですが、そうした印象によって読者は幻想の中に逃げ込むことを許されなくなります。気が狂ってるとしか思えないような世界を前にして、それでもなお現実を意識せざるを得なくて、読者は虚構と現実との間の不安定な立ち位置でぶん回されることになります。
 〈いかにして夢を見るか〉。夢を見ない見ないと言ってはいますが、そこで起きていることは悪夢の中の出来事としか思えません。
 〈夜明け、彼は妄想より来る〉。最初は三人称視点により第三者視点の語りだったはずが、運がいいと思っていた(p33)からすぐに突然女性の視点になって、そこから*(アスタリスク)ごとにステージが交互に切り替わる不思議な構成です。人は死ぬ前に人生の走馬灯を見ると言われますが、本当にその人の人生をすべて見ようとすると、その人間の中にいるのではなく外にいなくてはならないでしょう。おそらく、本作はそうしたことを試みたのではないかと夢想しています。
 〈召されし街〉。集団あっての個人ではなく、個人あっての集団だということでしょう。それにしても、”死”の扱い方が独特でついていけません(笑)。
 〈いつか、僕は〉は、文庫版で新たに収録された作品です。死に魅入られた少年の末路。本書にあっては凡作(←冷静に見るとおかしな評価)だと思いますが、悪趣味としか言いようがありません。
 インキュバス言語〉。確かに、プロ作家版エロ小説のガイドラインですね(苦笑)。エンピツ×消しゴムといい、人間のこっち方面の妄想は馬鹿馬鹿しくも偉大ですね(笑)。
 〈ドギィダディ〉。父と子と精霊の御名において、ならぬ、エロとグロとブラックジョークの御名においてアーメン(笑)。
 バロック あるいはシアワセの国〉は、本書収録作の中でも傑作度の高い作品のひとつだと思います。

 未だに虚構と現実とのあわいに存在している〈時の王国〉。
 その真偽を定めることは不可能かもしれない。
 だがいずれにしろ私はその不可能かもしれないことへと取り組んでしまった。
 成功したか否か、その判断は読者に委ねるしかないだろう。
(本書p187より)

 センテンスごとに出典が明示されているという奇妙な構成になっています。筒井康隆の著書に『虚人たち(書評)』がありますが、この作品は原稿用紙1枚が作中時間で1分という特異な構成になっています。裏を返せば、普通の小説は小説内時間を自在に操作しているということが言えます。本作では、バロックというドラッグ(?)による体感時間の変化・客観的時間と主観的時間との乖離という現象を通じて、フィクション(に限らないかも?)のそうした麻薬性をテーマ化したのだと思います。いずれにしても、小説というフレームに興味のある方にはぜひ吟味して欲しい逸品です。
 〈中華風の屍体〉。どの変が中華風なのでしょう。よく分かりません(笑)。
 〈踊るバビロン〉は、これまた傑作度の高い作品だと思います。いきなり段組みが変わり、下部に注釈がつくという奇妙な構成で語られるのは、「生体建材」という奇天烈なアイデアをもとにした珍奇なストーリーです。なんじゃこりゃ??? 不条理バイオレンスグロ??? 幻想を通り越して馬鹿馬鹿しいとまで言い得る物語ではありますが、注釈の存在によって無理やり現実に結び付けられています。奇想と技巧の極みが感じられる逸品です。
 〈演歌の黙示録〉。満喫度では収録作中一番です。こぶしをきかせて「いあ! いあ!」って、馬鹿じゃねーの。アハハハハ(笑)。
 〈或る芸人の記録〉は、一応、未来におけるお笑い芸人のあり方というのを模索したのかもしれませんが、田中啓文『銀河帝国の攻防も筆の誤り(書評)』のような馬鹿馬鹿しい物語になっています。トリフィド植樹祭が個人的にツボです。そんなの植えちゃダメだろ(笑)。
 〈憑依奇譚〉は、収録作の中だと異色なハートウォーミングなものでして意表を突かれました。悔しいので褒めません(笑)。
 〈逃げゆく物語の話〉は、これまた傑作度の高い話です。白眉です。擬似物質化されたテキスト情報「テキスティック」によって作られたヒトガタの言語人形「ラングドール」。彼らは生きた物語・人の形をした妄想です。そんな彼らですが、たび重なる凶悪事件の発生の要因としてホラーやポルノが挙げられた結果、一部のラングドールは違法なものとして処分の対象となってしまいました。そんなラングドールたちの「図書館」への逃避行が本作の物語です。
 酒見賢一『ピュタゴラスの旅(プチ書評)』の文庫版あとがきに以下のような記述があります。

 例えばキーワードとして、”小説は生き物である”という言葉が昔から言われている。ならば、小説という生き物を主人公にした小説を書いてみたらどうだろう。これは面白いかもしれない。
 小説が生き物ならば、何を呼吸して、何を食べて生きているのだろうか。どこに棲み、どこで生まれ、どういうふうに成長するのか。また生物しては当然に生殖を行って子孫をつくるであろうが、どのようなセックスを行うのだろうか。それ以前に、小説に性別が存在するのだろうか。単細胞生物のように分裂増殖することも有り得よう。

 本作は、こうした酒見賢一のアイデアからすると不十分なものではありますが、しかしながら小説という生き物を主人公にした物語であることは間違いありません。小説は作者の死後も存在できますが、小説は小説で死というものがあるのだなぁ、とそんなことを考えさせられました。メタ小説のはずなのですが、ついつい入り込んでしまいました。筒井好きならもちろんのこと、そうでなくても多くの方に読んで欲しい逸品です。
 最後に〈付記・ロマンス法について〉。付記とありますが、これはこれで立派な一短編です。作家は、読者の心に何かを訴えようと思って小説を書いていると思いますが、それがなかなか読者に届かずに苦悩しています。そうした一方で、何か事件が発生するとマスコミとかは類似の作品との関連性を疑いその影響を一方的にまくし立てて吊るし上げます。言葉の持つ力を乱用しているのはどちらでしょうね。
 解説の平山夢明奇怪痛快奇々怪々な話と語ってますが、まさにその通りの作品集です。ときに実験的な手法で語られる幻想的な物語には、しかしながら物語らしい物語以上に心打たれるものがあります。オススメです。