続・三人称視点の語り手は誰?

 「続」というくらいなので、まずはこちらをお読み下さい。
三人称視点の語り手は誰? - 三軒茶屋 別館
 で、それに対していずみのさんから反応記事を書いていただいちゃいました。
三人称の不思議 - ピアノ・ファイア(必読の上で以下の文章をお読み下さい。)
 この記事を読みまして、残暑にやられて鈍っていた思考意欲が刺激されたのでつらつらと。


 小説の作法として、これといって決まった名称が付けられているわけではないみたいですが、小説書き/小説読みの人なら自然に違いを理解しているであろう文体のスタイルが……、
1.一人称複数体
2.一人称寄り三人称体
3.一人称複数寄り三人称体
……このみっつですね。

 私は文学畑出身者ではないので正式名称とかの話になると弱いのですが(汗)、『小説の秘密をめぐる十二章』(河野多恵子/文春文庫)によりますと、語りの形式として、一人称と三人称、それから単元(一元)描写(=常に作中人物の一人の視線による描写の方法)と複元(多元)描写(=二人以上の人物の視線を用いる方法)とに分類されています。ですから、私的理解としての小説の「語りの形式」は、
1.一人称単元描写
2.一人称複元描写
3.三人称単元描写
4.三人称複元描写
の4パターンに分けられます。で、いずみのさんの記事中の言葉に当てはめますと、「一人称複数体」が一人称複元描写、「一人称寄り三人称体」が三人称単元描写、「一人称複数より三人称体」が三人称復元描写、そして単に「完全に一人称」が一人称単元描写ということになるかと思われます(あれ? そうすると完全三人称体というのがよく分からなくなりますね? 登場人物が全員死んでも物語が語られるようなものをそう表現すると考えるべきでしょうか。そうすると神による一人称単元描写がイメージとして近いでしょうか。……難しい)。


 ただ、歴史的に言って「完全に一人称的な映画」を撮ることは不可能だと言われていて、それは漫画でもおそらく同様でしょう。多分、完全に一人称的と呼べる漫画は、漫画家自身の「エッセイ漫画」や「絵日記漫画」に限られると思います。

 これが個人的にすごい興味があるというか見てみたいのですが、いずみのさんが不可能と言われるくらいなのですから無理なのでしょうね(笑)。いや、理論的に不可能ってことはないと思うのです。小説における一人称と三人称の違いは「顎筋を描くことができるか否か」に集約できます。これ(一人称単元描写)を漫画で徹底的に守ろうとするならば、3Dシューティングみたいな視点で基本的には描きつつ、脳内描写についてのみ自由なアングルで描くことが許される、ということになるでしょうか? ……ストイックというか、すごいつまらなそうです(もっとも、視線と脳内描写の境目は結構あいまいですから、漫画の場合はセリフに着目して一人称・三人称を判断すべきでしょうか?)。視点の統一は、漫画特有の絵とか構図とかの存在を許してくれません。それでも読む側は何とかなりそうですが、おそらく描く側が耐えられなくなるのではないでしょうか? こんなの漫画で描く意味があるのかと。
 ただ、何となくそんな一人称単元視点を読んでるような気持ちにさせられる漫画があります。岡本一宏『トランスルーセント 彼女は半透明』がそれです。この作品だと主人公が「半透明病」にかかってしまっているために、ときどき主人公が消えちゃうんですよね。それによって主人公の顎筋が描かれていない状態が図らずも(?)発生してしまってて、結果として一人称単元描写みたいなことになってしまってます。作中で語り手が見えなくなるということは、読者としてもその物語から疎外されてるような感じがして物悲しい気分にさせられます。


ぼくの解釈だと、この「語り手」は「一人称化した三人称」? わざとややこしく言えば「一人称複数寄り三人称寄り一人称体」といった所なのですが、逆に柔らかく言うなら「擬人化された三人称体」だと思います。

 これは完全に同意です。この点について考えたとき、ミステリ読みというのはとても偏った読み方をしている人種なのだな、と再確認させられました。ミステリ(特に本格)に多くみられる形式として、ワトソン役による一人称単元描写があります。ミステリにおいて作者が神の視点で物語を語っちゃうと、神のさじ加減ひとつによって真相をほのめかすヒント(あるいは伏線)の配置が定められることになるのですが、この作業にご都合主義を感じてしまう場合があります(特に真相が分からなかったとき・笑)。その点、ワトソン役に視点を絞れば、真相を示すような事柄についても「作者が隠したのではなくワトソン役が気付かなかったから描かれなかったのだ」というルールができて伏線を張る作業もとてもやりやすくなるものと思われます。つまり、ワトソン役こそまさに「語り手の事情」によって作られた語り手なのです。
 ただ、一人称視点は三人称とは違って地の文による客観性の保証がなされません。これはミステリ的には困ったことです。そこで、『どんどん橋、落ちた』では、一人称視点についても次のようなルールを提唱します。

 そこで、一人称の記述に何らかのルールを設けるとしたなら、『故意に虚偽の記述をしてはならない』ということになるでしょうか。その状況において不可避であった誤認については仕方ない、ただしわざと嘘をついてはいけない――と。
綾辻行人『伊園家の崩壊』より)

 こうしたスタンスはミステリ読みとしては非常に納得できるものです。しかし、一小説読みとしてのスタンスに立ち返ったときには笑止千万です。一人称なのですから、そのキャラが何を思い何を述べても全然構わないでしょう。そもそも、普通の小説読みはキャラクタが何か考えたり話したりしてたら、そのキャラは何を思ってるのか? なぜそんなことを言うのか? とかそうしたことに興味が向くはずです。にもかかわらず、ミステリ読みはそんなのお構いなしに推理ゲームとしての読み解きをしているわけです。例えれば、ワインのテイスティングで産地や銘柄を当てることのみに神経を使って、味や香りを楽しむことにはまったく無頓着なのと同じだと思います。「そんな飲み方して楽しいか?」と問われれば、酔っぱらってるのを自覚もせずに「楽しい」と答える人種なのですから、ミステリ読みってのはホントに始末におえません(苦笑)。
 その一方で、じゃあミステリ読みはまったく物語を楽しんでいないのかといえばそうでもありません。言葉とは恐ろしいもので、例え推理ゲームに夢中であっても、作中人物が死ねば悲しい気分になるし活劇シーンになればワクワクするし恋愛模様になればドキドキするしエロシーンになればムラムラします。そうした、一見すると相反するような情動がミステリ読みからすれば小説を読む醍醐味のひとつだということはいえると思います。
 少々脱線したので話を戻しますが、つまり、一人称であっても三人称であっても、ミステリ読みは”神(=作者)の視点”をまず意識していることになります。これはやはり特異な読み方・ジャンルだといえるでしょう。逆に、あるミステリを読んでて気が付いたらそうした謎解き意識を忘れていたときに「この物語は小説として傑作である」みたいなことを気楽に言う傾向があります(笑)。



 以上、オチがないのは相変わらずですが、異論反論叩き台踏み台捨石等、ご自由にお使いいただければ幸いです。
【オマケ】二人称小説一覧 - 三軒茶屋 別館
小説の秘密をめぐる十二章 (文春文庫)

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語り手の事情 (文春文庫)

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どんどん橋、落ちた (講談社文庫)

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