『樹海人魚 2』(中村九郎/ガガガ文庫)

樹海人魚 2 (ガガガ文庫)

樹海人魚 2 (ガガガ文庫)

 異色の作家として知られる中村九郎の作品の中で、比較的読みやすく一般人向けにデチューンカスタマイズされた『樹海人魚』の2冊目です。
 中村九郎の作品がなぜ難解なのか? にもかかわらずなぜ(ごく一部の人間に)人気なのか? それは、一般の小説で採用されているような作中で起きている現象を客観的に描写する手法ではなく、客観的な描写の中に頻繁に入り込んでくる主観的な描写の多用、すなわち主人公の視点から見た心象風景が交わることによる風景の混濁によるものだと思います。
 語り手は”視たもの”を語ります。仮にその語り手が信頼できる語り手であったとしても、視ているものが不明瞭なものであれば、その語りもまた不明瞭なものにならざるを得ません。語り手について考えることは視点について考えることでもあるのです。
 小説における”語り手”という存在は、その立ち位置によって一人称(語り手が物語世界の内部にいる場合)と三人称(語り手が物語世界の外部にいる場合)の二種類に大別されます。三人称であれば物語の中からの世界が語られないもののように思われてしまうかもしれませんが、実際にはそうではありません。三人称であっても、ときには作中人物の深層心理の奥深くまで語ることがありますし、逆に一人称であったとしてもその語り手の心理をすべて説明してくれるとは限りません。一人称や三人称といった語り手の立ち位置は”視点”と呼ばれますが、単に一人称か三人称かという立ち位置の区別のみで読者が視ている作品世界の風景を割り切って考えるわけにはいきません。そこで、視点というものをより具体的に考えるため、視点から視線へと問題意識がシフトしていくことになります。
視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

 『視線は人を殺すか』は、小説における視線に焦点を当てながら「語り」というものを分析しています。つまり、語る行為と視る行為との区別です。そこでは、語り手という点から離れた焦点人物の位置によって内的焦点化(焦点人物が物語世界の内側にいる場合)、外的焦点化(物語世界の外側から眺めている場合)といった区別が紹介されています。その区別にならいますと、中村作品は内的焦点化が多用されている傾向があるといえます。ところが、『樹海人魚』は違います。外的焦点からの語りがほとんどです。もちろん内的焦点化が行われることもありますが、しかしそれはいわゆる普通の小説と見紛うほどの頻度にしか過ぎませんし、内的深度もとても浅いです。そうなっている原因として『樹海人魚』という作品ならではの設定を理由として挙げることができます。
 『樹海人魚』は主要人物のほとんどが人魚です。この作品の人魚は不死の怪物とされていますが、それは不死身という意味ではありません。肉体的に一度死んでも転生することで蘇る輪廻としての不死。それが人魚です。生き返ることが前提となっているので”不死”と評されるだけで、決して死なないわけではありません。一度死んでしまえば物語からは脱落してしまうことになります。ですから、内的焦点化を多用してしまうとその人物を殺せなくなってしまいますし、物語がぶつ切れになってしまう恐れもあります。それを避けるためには外的焦点化を基本とせざるを得ず、それが結果として読みやすさというものにつながっているのだと思います。
 そんなわけで、本書は中村九郎にしては普通なシリーズの2作目に当たるわけですが(笑)、普通といっても変な設定はそのままです。また、キャラクタたちの会話も電波手前のセリフが飛び交いますのでやっぱり普通じゃないのですが、ただ、会話の中からキャラクタの個性や関係性を引き出すことにはそれなりに成功しているんじゃないかと思うので、これはこれで今後も追っかけていきたいシリーズです。ってか、中村九郎にシリーズものを書く構成力があることを発見できたのが本書を読んでの一番の収穫だったりします(笑)。他に代え難い個性を持つ作家さんだけに、これからも注目していきたいです。
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