『私が語りはじめた彼は』(三浦しをん/新潮文庫)

私が語りはじめた彼は (新潮文庫)

私が語りはじめた彼は (新潮文庫)

――先ほどのお話にもありましたが、『私が語りはじめた彼は』と『むかしのはなし』は、語り手の視点や、人称の問題を追及した挑戦だった?
三浦 挑戦というほどでもないんですが、色々考えて、でも色々考えすぎちゃいけないという結論でしたね(笑)。ただ、小説を書いていく上で、避けては通れませんでした。どうしても必要だったんです。だっておかしくないですか? 一人称の「語り」って、いったい誰に向かってしゃべってんの?って。一度疑問に思い始めたら、クリアしないと先に進めないと思いました。三人称だって、完璧な三人称は難しいし、また完璧な三人称は、つまらないとも思うんです。そういうことを考えていたら、一時期”人称オタク”みたいになってしまって(笑)。
(『活字倶楽部』2010年6月号p13〜14より。)

 本書は、視点について趣向が凝らされた作品です。
 「結晶」「残骸」「予言」「水葬」「冷血」「家路」の各章はそれぞれ独立したお話としても読めますが、本書の構成を考えるとやはりひとつの長編として評価したいです。
 本書の内容を端的に言ってしまうと大学教授・村川融の不倫に端を発した人間模様ということになります。ただ、本書の面白いところは、本書の中心人物である村川の視点が排除されている点にあります。村川融の女性関係によって人生を狂わされたり変化を余儀なくされたりといった様々な男性の登場人物の視点からの一人称による描写が採用されています。つまり一人称多元描写です。
 村川の大学での教え子だったり不倫相手の夫だったり村川の実子だったり……。村川融という人物との距離も関係も様々で、そんな男たちによる各章の作風も、これまたミステリー風だったり家族小説だったり青春小説だったり恋愛小説だったりハードボイルドだったりと様々です。
 通常であれば主人公の役割を与えられるであろう村川の視点を介さず、反対に脇役に甘んじるであろう人物たちに焦点を当てて主人公として扱う。そうすることによって、村川融という存在が多面的に浮かび上がってくる……のかといえば、実をいえばそんなことはありません。冷めた目で見ますと、そこまでの扱いをされるに足る人物でもないでしょう。恋愛小説において、視点をどこに置いて焦点をどこに定めるべきかについて非常に考えさせられる作品であるということがいえます。
 変な例えかもしれませんが、クラスにいる問題児ばかりがいつも先生に構ってもらってて、そこそこ真面目にやってる生徒に陽の目が当たらないのはどういうことやねん? といった不満をお持ちの方にはオススメしたい一冊です(笑)。

活字倶楽部 2010年 06月号 [雑誌]

活字倶楽部 2010年 06月号 [雑誌]