そもそも小説って何?

 再掲になりますが、まずはこちらの記事をお読み下さい。
未定義なのはライトノベルだけか? - 雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜
 以前、上記リンク記事を取り上げさせていただきまして、それに対して私はこのような反応をしました。ただ、この反応はラノベとジャンルの定義論についての差異について一言述べたものであって、両者の違いに直に触れたものではありません。そこで、改めてラノベとジャンルの違いって何だろうな? と考えてみますと、ライトノベルは”ノベル”というくらいですから小説であるのに対し、ジャンルの場合は必ずしもそうとは限らないということは言えるでしょう。
 例えば日本SF大賞だと、原則として小説が大賞を獲るのがほとんどのようですが、中には『イノセンス』や『ガメラ2 レギオン襲来』といったアニメや特撮、または『バルバラ異界』といった漫画が賞を獲ったりしています(参考:Wikipedia)。これに対してラノベの場合、いくら『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメがヒットしたからってアニメがラノベの賞を獲るようなことはないでしょう(特別賞とかならあるかもしれませんが)。ライトノベルといったときに、そこで対象となるのは小説なのです。ただ、昨今のラノベ界の周辺状況に鑑みますと、TRPGのリプレイやノベルゲームやケータイ小説なども無視できないなぁと思ったり思わなかったりします。そこで、「そもそも小説って何?」ということが気になります。この点について、司馬遼太郎はかくの如く仰っています。

 小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである。小説というものは一般に、当人もしくは読み手にとって気に入らない作品がありえても、出来そこないというものはありえない。
 そういう、つまり小説がもっている形式や形態の無定義、非定型ということに安心を置いてこのながい作品を書きはじめた。
(『坂の上の雲』より)

 全然駄目じゃん。もっと小説というものについてビシッと言ってくれてる人はいないのか。本棚をがさごそ漁ってみましたが……。

 小説とは、いったい何でしょうか。
 私の考えでは、小説とは何か、を考える、いちばんいいやり方は、
「小説を書いてみる」
――というものです。
 わたしが、こういうと、おそらく、みなさんは、
――そのものがどういうものなのか、はっきりとわからないのに、何を書けばいいのか、というかもしれません。
 でも、「生きる」ということが何なのかわからなくても、わたしたちは生きているし、「人間」とは何か知らなくても、人間である(かどうかは疑わしいことはあるにしても)ことは可能なのです。
高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』より)

 文学作品は生き物なのである
河野多恵子『小説の秘密をめぐる十二章』より。ただし、これは多分もっと前に言ってる人がいると思いますが、私には分かりませんでした。)

 どいつもこいつも役に立たねー。
 現代科学において生命の定義すらできていないのに生き物に例えられたって困ります(もっとも、この例えには頷ける点が多々あるのも確かですが)。しかし、まあ、このことから分かるのは、小説とは何か定義できなくても小説は書けるし読めるというわけです。したがいまして、小説の定義については広辞苑(作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学)を引くくらいの毒にも薬にもならない定義で満足しつつ、あとは個々に考えていくよりほかないと思います。ただ、私自身の考えとしては、小説とは何か? を考えるより、筒井康隆的なスタンスで、文学(あるいは文章を楽しむという意味での”文楽”)とは何か? といった考え方が性に合うように感じてはいます(あくまでも私見ですが)。
 そんなわけですので自分で考えてみますが、ケータイ小説は小説っていうくらいなのですから小説でしょう(←超適当)。ノベルゲームは、あまりやらないのでよく分かりません(せっつかれてはいるのですが、なかなか食指が動きません)。まあ、ものによっては小説と言っても可笑しくないのではないかと思います(←やはり超適当)。
 それではリプレイはどうでしょう? ここで少し脱線します。酒見賢一『ピュタゴラスの旅(プチ書評)』の文庫版あとがき*1で「小説とは何か?」について述べていて、そこでいろいろと模索しています。下手すれば本編よりも面白いので興味を持たれた方には是非読んでみて欲しいです。その中にこのような文章があります。

 小説がたまらなく嫌になった時期がある。小説に対する疑惑がむらむらと込みあげて仕方がないのである。
 小説のどこが嫌になったのかと聞かれると非常に説明しにくいが、敢えて一言で言えば、虚構である、というところが問題だったようである。すべて小説に書かれていることは嘘であって作り話にすぎず、そういうものを読んだり書いたりすることに意義が見いだせないというわけだ。
 つまり、実在しない人間にそれらしい日本人の名前がついていて、話し、行動し、何事かを為したりするのを読むことが嫌で嫌でたまらないのである。
(中略)
 さて話はご推察のとおり『易』を使って小説が書けぬものかと考えたのである。
 『高い城の男』には『易』が重要なモチーフとして登場する。ディックによれば、作中で、小説を書くこと自体に『易』を用いたことはただ一度だけで、最終局面を書く際に登場人物の行動を決定するべくコインを投げたという。この時、別の掛が出ていれば小説の結末も変わっていただろう、といったことを述べていた。
 ディックのように要所を『易』で一発で決めるほうが、乱用するより、『易』の精神からすればよほど正しい。私は『易』の崇高な精神を涜してもよいから『易』づくしで小説を書いてみたいと思っているわけなのだが、まだその最も有意義で面白い書き方は思いついていないのである。

 こうした、作家としての作り物の物語を書くことへの虚無感を解決するための方法として、リプレイというのは極めて有効な方法ではないかと思います。リプレイに登場する主要人物(PC=プレイヤー・キャラクター)はプレイヤーが作って動かしてくれますから、自分自身の脳内活動としての虚構の創作作業はかなり緩和されます。また、行動の結果の是非は往々にしてダイス目(サイコロ)によって決定されるわけですが、これこそまさに『易』の精神に適ったものだといえるでしょう。酒見賢一のこの文庫版あとがきは平成5年に書かれたものですから今はどうか分かりませんが、もし同じような悩みを未だに抱いているのであれば、TRPGのリプレイでマスターをやってみるのはどうでしょうか(笑)。
 などと、長々と脱線しましたが、上述してきた酒見賢一のような問題意識に立ちますと、リプレイというのはそうした問題に極めて真摯に立ち向かう表現形式と言えますし、そう考えるとリプレイは小説と言ってよいと思うのですがいかがでしょうか?
 以上、とにもかくにも「小説とは何か?」について語ってきましたが、定義不能というのが現状のようです。したがいまして、その延長線上にあるはずの議論としてライトノベルの定義が困難なのも至極当然なことだといえるでしょう。一応のまとめとして、昔から、小説は人間を書くものである、と言われてきてます。だとすれば人間が人間に興味を持ち続ける限り、小説という表現形式は定義不能なままでも延々と受け継がれていくことでしょう。
【少しだけ関連】プチ書評 谷川流『学校を出よう! 4』(『高い城の男』について触れています。)

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

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小説の秘密をめぐる十二章 (文春文庫)

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ピュタゴラスの旅 (集英社文庫)

ピュタゴラスの旅 (集英社文庫)

*1:ただし、私が所有していてここで引用しているのは講談社文庫版です。本書は講談社文庫から集英社文庫に移っていまして、集英社文庫版にこの文庫版あとがきが載っているか否かは不明です。もっとも、どちらにしても出版社品切れで入手困難ですが(笑)。