『神様の悪魔か少年』(中村九郎/Style-F)

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

 高校生になった彰人は幼い頃母を殺していた。それもまもなく時効を迎える。そんなときに出会った少女・恵にそそのかされ、自らの罪を覆い隠すため県会議員の父を知事にしようと画策するが……。驚愕の青春ノワールあらすじより)

 平成十六年の法改正により、殺人罪の公訴時効期間は十五年から二十五年になりました。拙作では、時効の年数を法改正以前の十五年にしております。
 青春から逃れようとする少年性を、時効にあてはめるためでした。
 青春を時効と連動させると、刑事法に触れる行為をした十四歳未満のものが触法少年として扱われる、という概念は、「少年」の頭では〈時効から逃れること=青春から逃れること〉と置き換えられるのではないか。
(本書あとがきより)

 ラノベじゃない中村九郎作品がいったいどんなものになるのか、興味と不安とが半々の心持ちで読んでみたのですが、中村九郎はやっぱり中村九郎でした。呆れたというか安心したというか(苦笑)。
(以下、長々と。)
 中村九郎という作家は、『樹海人魚(プチ書評)』の人魚から人形あるいは歌い手といった着想が示すように、語りたいことを語るときにそのとっかかりに駄洒落めいた連想を必要とする作風のようです。本書の場合だと、少年性を語るために時効が用いられています。そうして、ときに少年性が直接的に語られかと思えば時効という概念によって間接的に語られたりします。テーマを語る際の描写のブレがテーマそのものを(無駄に)複雑にして(無駄に)読みにくくしているのですが、一方でテーマを語るための語彙を増やし独自の物語観を確立するのに寄与しているのも確かです。
 読みにくい原因は他にもあります。本書は著者自身があとがきで述べている通り、神様も悪魔も登場しない人間ドラマで、それまで奇想に執着してきた(自覚はあったのですね)著者にしてみれば意欲的な作品です。したがいまして本来なら幻想性に乏しい物語になるはずなのですが、ふたを開けてみれば相変わらずなのがさすがです。なぜこんな風になってしまうのでしょうか? 

 僕はその時ふと、自分という存在が実はCGで作られた「嘘」のような気になった。
 見る人が見れば僕がCGだということは明らかなんでしょうよ。では見えない人にすれば存在しないのも同じことですか。
 というかなんというか。
 誰よりもまず、僕自身が僕のことをどういう存在なのかわかっていないな、と思った。
(本書p12より)

 こうした自己と外界とのギャップというのは、中村作品を読み込んでいる方にはお馴染みの感覚でしょうが、本書でもそうした違和感は健在です(参考:中村九郎の読みやすさ・読みにくさ)。本書の場合はひょっとしたら今までで一番酷いかもしれません。自我への不安。だからこそ、本書では主人公である彰人の視点からの描写が、実際に起きている出来事よりも優先して描かれています。彰人の目の前に人が立っていても、彰人の中にその人がいなければその人物の存在が描かれることはありません。彰人に誰かが話しかけていても、彰人が聞いていなければそれは文字にされませんし、逆に彰人の脳内で会話が行なわれていれば、その会話は普通の会話のように文字にされて読者に示されます。こうしたことも中村作品が読者に独特の読解力を要求する原因となっています。
 まだまだあります。二章では、彰人がまさおを計画的に殺そうとしていたということが恵によって指摘されて、彰人もそれを認めてしまいます。ところが、冷静に考えるまでもなくこんなずさんな計画にそれだけの説得力があるわけありません。それでいて彰人は父親に事前にメールを送るという理解不能な行動をとっています。こうした理不尽な流れ・心理描写が本書では頻出します。原因があって結果があると考えるのが普通でしょうが、本書の場合、必ずしもそうではありません。結果に見合った原因が彰人の脳内、あるいは恵との会話などで捏造されていき、それが”本当”になっていくということが普通に起こります。そうした展開について疑問を感じるのは至極当然のことだと思いますが、そこで立ち止まってはいけません。めげずにページをめくり続ければそこに感動が……あるかも?(笑) しかし、”中村九郎を読む”というのはそういうことなのです。ただ、こうした後付けにこじつけの理論というのは「少年性」と妙に相性がいいので人によっては違和感なく読めるのかもしれません。
 このように、一般人が手を出すのに本書は極めてハードルの高い作品だと思われますが、しかし面白いです。
 不安定な自我そのままに語られる少年の物語は、思春期特有のエロとかいじめとか嫌な部分が神経質に語られていて”ノワール”の名に相応しいものに仕上がっています。自分のことばかりで周囲のことが見えず自分の都合の良いように物事を捉えていく過程はまさに中二病気質です。中二病を描かせたら中村九郎の右に出る者はいないでしょう(笑)。
 そのように自我が不安定になっている要因として用意されているのが、幼い頃に母親を殺してしまったというトラウマです。冷静に考えてみれば幼児が大の大人を殺せるはずなどないのですが、それは彰人にとっては現実にあった出来事として彰人の人格形成に影を落とし続けます。幼少期からの人格形成の過程の描写は、主人公の彰人のみならずその友人の大塚や祐介やまさおにまで及んでいます。本書は少年ノワールなので少年犯罪というものについて考えないわけにはいかなくて、その点、本書は著者にとっては物足りない踏み込みの浅いものになってしまっているという後悔はあるようです(本書あとがきより)。ただ、少年の自我というものがとても不安定なもので周囲からの影響をとても受けやすく、その犯罪の帰責するところを考える上で少年個人にすべてを負わせてしまうことへの危うさや疑問といったものは、図らずも(?)描かれていてこの点はとても好感が持てます(是非は別として)。
 それに、彰人の抱えるトラウマは、自らの存在を悪であると断定させてしまっています。しかし、善悪の概念などとても相対的なもので、そんなことは彰人にも分かっています。それなのに、自分自身については疑いなく悪の存在であると断じてしまう。抱える必要もないのに抱えてしまった秘密によって人格が歪んでしまう様子が描かれているところも、悪趣味と思われるでしょうが面白いです。
 また、こんなに不安定で自分自身のことすらまったく分かっていないのに、国政や県政にはとても詳しく語れて、自らの罪を隠すために”摂政”(殺生のダブルミーニング?)を気取ろうとするそのストーリーがこれはこれで面白いです。確かに本書は現実の社会問題とはズレちゃってます。ただ、

「関係ないけど、僕たち日本国民なのに一度も法律とか勉強しなくていいのかな」
(本書p238より)

てな感じで、作中の登場人物たちの言動は滅茶苦茶なのに、そのくせマトモなことも言ってくるから物語の咀嚼に困ります(笑)。国の歴史とか国家の仕組みとか政治のことは教わるけど、そのくせ国家と国民とを結び付けている法律について習わないのはなぜだろう? といった素朴だけど言われてみればごもっともなズレ・問題意識もきちんとあって、だからこそ単なる道化役以上の”摂政”の面白さが描かれています。作中の表現を借りれば、盤もルールも分からないのに自分が将棋の駒であることだけは嫌と言うほど教え込まれるようなものだと言えばよいでしょうか。それはまた、少年法などで社会が法の内側に囲い込んでいるつもりの「少年」が実はアウトローな存在になり得ることも示唆しています。そういう意味では、方向性として『アルキメデスは手を汚さない(プチ書評)』などに近いものがあります。
 一応、幼い頃に彰人が母親を手にかけたと思ってる事件の真相は? とかの謎の解明もあるのですが、そっちの方はあまりリーダビリティがなくて、そのくせ唐突に真実が明らかになって、カタルシスはまったくありません。それでいいのか?(笑) オチが付いてるようでいてよく考えるとわけの分からない部分も多々あって、つまりはいつもの中村九郎だということです。ラノベから離れても中村九郎中村九郎なので、手を出すのを躊躇している(奇特な)ファンの方がいらっしゃいましたら是非読まれることを強くオススメします。
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