『ロクメンダイス、』(中村九郎/富士見ミステリー文庫)

ロクメンダイス、 (富士見ミステリー文庫)

ロクメンダイス、 (富士見ミステリー文庫)

 以前、ミステリとライトノベルの『四大奇書』で紹介した『ロクメンダイス、』ですが、現在出版社品切れということなので、復刊ドットコムにリクエスト投票してみました。

絶版本を投票で復刊!

 正直そんなに票が集まるとは思ってませんし、仮に集まったとして復刊されるとも思ってません。しかし、もし票が大量に集まったりしたらちょっと面白いと思うので、興味のある方はぜひぜひ投票してみて下さいませませ。

 これだけでは味気ないので、『ロクメンダイス、』について私なりの解釈・感想をつらつらと書き連ねていきたいと思います。ネタばれできる程に本書を読み込めたとは全然思ってませんが、以下一応既読者限定で。あと、夢野久作ドグラ・マグラ』も読まれていた方がよろしいでしょう。
 本書は2005年6月に刊行されまして、私は発売日間もなく買ってすぐに読みました。で、混乱しました。何だこれは? と理解に苦しみ、近い読後感を味わった作品を脳内で検索した挙句、辿り着いたのが『ドグラ・マグラ』でした。

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

 一番入手しやすいのは角川文庫の上下巻のものですが、この表紙絵の買いづらさは並みのラノベの比じゃない気もしますね(笑)。
 笑ってもらってかまわないのですが、当時の私はまだ富士見ミステリー文庫というレーベルに対してミステリーを求める気持ちがありました。そのせいもあって『ドグラ・マグラ』が頭に浮かんだのかもしれませんが、しかし、両者は結構共通点があります。

・作中作を思わせるかのような、夢と現実がごちゃまぜな雰囲気
・六面ダイス=精神病棟を思わせるかのような舞台
・まったく信用できない語り手=情緒不安定を通り越して精神病の自覚のある語りは騙りとの区別がまったくつかない。
・テーマの類似性(『ドグラ・マグラ』も『ロクメンダイス、』も心の問題をテーマにしていることは間違いない。)
・実感のない”妹”の存在
・カウンセラーへの依存・対立

 まあ、類似点があると言っても『ロクメンダイス、』は『ドグラ・マグラ』とはおそらく無関係に書かれたものでしょう。『ドグラ・マグラ』が十数年の年月をかけて書かれたのに対して、『ロクメンダイス、』の方は書きたいままに書き殴ったという天然じゃないかと思ってます。それに、多少類似点があるからと言ってそれを説明したくらいじゃ『ロクメンダイス、』の個性は全然無効化できません。
 両者の類似点でもある心というテーマですが、『ロクメンダイス、』も『ドグラ・マグラ』も心に対して科学的なアプローチを試みてるかのように読めるのが特徴的です。もっとも、『ドグラ・マグラ』の場合は当時の知識水準としては十分科学的なものを取り入れつつ精神病棟の悲惨な現実も主張しながら猟奇趣味・探偵趣味などもミックスされて虚実混濁という様相なのに対し、『ロクメンダイス、』の方はアナログな心をデジタルなものにできればいいのにといった願望まじりの魔法・ファンタジーです。理解できないものを理解したいという渇望です。そういう意味では、両者は似て非なるものだと言えます。
 そもそも、冷静に読み返してみますと、『ロクメンダイス、』より『ドグラ・マグラ』の方が遥かに難解で手に負えません。『ドグラ・マグラ』は狂人の書いた推理小説という設定で、これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられるくらいの難物です。実際、私にも何のことやら分かりませんし通常の意味での物語的な面白さを感じることはできないのですが、しかし、なぜか囚われてしまっています。何回か再読したのですが、どうやら、世の中のすべての人間は狂人である、を体現するためにこうした奇妙極まりない構成・文体を試みたのではないのかと今のところ理解しています。と言うのも、世の中のすべては狂人である、ともっともらしいことを言ってみたところで、そのテキスト自体が普通人ぶっていては何の説得力もありません。普通人と狂人との境目を本当になくしたければ、そのテキスト自体を狂人の論理によって物語化しなければなりません。読者を狂気に追い込む効果はあくまで二義的なものにすぎず、まずテキスト自体を狂気そのものとすることが著者の目的だったのではないかと、恥ずかしながらようやくかような境地に至った次第です。その狂気のフィルターを排除して『ドグラ・マグラ』の物語の筋書きを理解することができれば読者冥利に尽きるのでしょうが、その境地はさらに遠い遠い遥か彼方に見えるか見えないかといったところです。

 しかしながら、だからと言って『ロクメンダイス、』が読み易い本だと主張する気はさらさらなくて、やはり読み難くて不親切な本だということは間違いないでしょう。そもそも、恋をしなければ死んでしまうという前提が意味不明です。そんなのしなくたって別に死にはしないのは明らかなわけで、だとすれば何かの比喩に違いないわけですが、それを読み解こうとすると独特の表現描写にぶち当たることになります。六面ダイスは名前のとおり六つの側面を持っている、とか言っといて、昼間は美容室で夜はバー、それに『家』であり治療施設なのまでは分かるとして、あと2つは何ですか? 心が錆付いているという割に主人公は突発的な行動をとりますし、場面転換は唐突で、いろいろな意味でついていくのがやっとです(笑)。おまけに、身辺警護→心辺警護とか多頭登録→タトゥー登録みたいな言葉遊び(ダジャレ)はかなり恥ずかしいです。ハツはハートのハツだと思ってましたが、ひょっとして初恋のハツでしょうか? 湯上は歪みですか? 細かい描写・設定について意味を追い求めても、多分、書きたかったとか面白いと思ったとか、そうしたところに帰結しちゃうものであまり深く考えない方が吉みたいです。これはこれで変わった表現だなぁ、くらいに考えるのが正しい読み方なのでしょう。
 恋をしなければ死んでしまうという前提は意味不明ながらとりあえず受け入れるとしても、そうすると、片思いだって「恋をしている」ことには変わりがないはずなので、死におびえる必要なないはずなのです。なのにハツはチェリーの気持ちが気になって仕方がないわけです。これはつまり、自分の恋心を自働的なものではなく、心辺警護による他働的なものだと認識しているから生じるすり替えでしょうし、つまり人間に自由意志があるのかないのか、といった問題に関わってくるわけですね。いや、私だってその昔『人間とは何か』にはまった記憶とかありますから分からなくもないですけどね。いや、『ロクメンダイス、』読んでると、なぜか思い出したくない昔のことを思い出しちゃうんですよね(汗)。

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)

 恋は心の病とよく言いますが、病をもって病を治す、あたりが本書の発想の根本じゃないかと思ったりします。
 それにしても、理屈とか抜きで描きたいように描いてるって感じです。独特の表現・設定に幻惑されることなく言葉言葉を拾っていきますと、死への恐怖と憧憬・刹那的な人生観と将来への希望・不安定な自我の否定とそれによる喪失、他者あるいは社会との摩擦・家族との微妙な距離感とか、それ自体共感できる感情が込められてはいると思います。少年病とか少女病とかは、あまり良い言葉だとは思わないのですが乱暴に言ってしまえば中二病がまさにぴったりだと思います。そういうのを分かりやすく表現・描写すればよいのでしょうが、それはそれで平凡な物語になってしまう可能性があります。その点で本書は極めて特殊で個性的です。ヒーロー願望や被害妄想とかそういう夢見がちな表現欲求に素直にしたがって、あたかも抽象画のごとく絵の具をべたべた塗りたくって、ときどき妙に細かく描写して、まわりを気にせず好きなように表現した結果できあがったのが本書だと思います。
 これだけ独特の描写・設定で意味不明なドタバタストーリーを展開させておきながら、”平凡な初恋”に落としてしまうところがまたすごいです。そんなわけねーだろ! と言いたいところですが、初恋の特殊性は確かに表現してるように思いますし、このような唯一無二の物語に仕上げてしまった点は素直に高く評価したいです。

 とまあ、長々と語ってきましたが、実のところ自信はありません。本書の場合、多数意見の読み方というのが私にはまったく想像できないのです。違う感想・違う解釈を持たれた方もきっとたくさんいらっしゃるでしょう。でも、それでいいんじゃないでしょうか? タイトル『ロクメンダイス、』の不自然な読点にはきっと、これで終わりじゃない、って意味が込められてると思うので。
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